ヒップホップ・カルチャーを担う女性たち「Akira Fukuoka」

ITからヒップホップの仕事へ

ーそして受験を経て進学し、大学卒業後に最初に就いた仕事はITの会社だったんですよね。ITからヒップホップの仕事をすることになった経緯は?

福岡 WEB系の会社で働きながら、普通にヒップホップも好きで、ライブとかも観に行きつつ、たまにDJもやったりしてたんですよ。その頃にRYUZOくんに東京のクラブで出会って、京都や大阪のシーンを紹介されるんですけど、それがけっこう衝撃的で。私は地方のシーンを全く知らなかったので、興味を持ったし、知らないアーティストがたくさんいることを知って、もっとフォーカスしないと埋もれてしまうんじゃないかと思ったんです。当時はあまりインターネットも普及していなくてまだ雑誌の時代だったので。それで友達のヒップホップ好きのライターに京都にこんなシーンがあったよって話したんですよ。そしたら取材に行きたいって言ってくれて、ANARCHYがインタビューを受けることになったんです。私は仕事をしてるという気持ちはまったくなかったんですけど、そういうやりとりをしているうちに気づいたら私がマネージャーみたいなポジションになっていました(笑)。



ーITの会社で働いていたこともプラスになったそうですね。

福岡 そうですね。そこからの流れで、これはもっとやった方がいいよ、曲も一緒に作った方がいいよってなって。じゃあレーベルを作ろうかという話になり、それでR-RATED RECORDSができました。私はホームページを作ることができたので、レーベルの公式サイトを作って、通販のページも作ったんです。そこでいろいろCDとかを買えるようにしたんですね。そこからがスタートになりますね。

ーやることが他よりも早かったんですね。

福岡 その頃のシーンでは早かったと思います。最初のMV動画を上げたのも、まだGoogle傘下になる前のYouTubeだった記憶があります。みんなガラケーでホームページを見るような時代だったので、それにも対応できるようにしてました。

ーその後はどのような仕事を?

福岡 当時からRYUZOくんが顔が広くて全国各地に友達がいたというのもあって、Future Shock(ZeebraやOzrosaurus等が所属していたヒップホップレーベル)と一緒にRYUZOくんのソロアルバムを作った時に、それはエイベックスからリリースすることになるんですけど、ライブツアーを組んで、そこにANARCHYに前座のような形で出てもらって、地方を回るということをやったんです。当時はそこまでインターネットが浸透してないし、最初はYouTubeもなかったから、とりあえず回らないと名前を知られないし、他に広げる方法がなかったんです。音楽を聴いてもらうのにはライブで回るのが一番効率的だったんですよね。

ーちゃんとアメリカみたいなやり方でやっていたんですね。各地方を回ってみて、手応えはどうでしたか?

福岡 みんなが「あの人誰?」となったところでRYUZOくんが満を持して紹介するという形で、「次はこいつやで」みたいなことを言うんです。全国各地にRYUZOくんの仲間たちがいて、みんな期待してくれるじゃないですか。でも資金がなかったのでお金を借りてきてパソコンや機材を揃え、ANARCHYの制作をしてという流れでした。RYUZOくんは当時27~28歳のラッパーだったから、まだ自分も目立ちたい気持ちもあったと思うんですよ。だけど、「ドクター・ドレーとスヌープ・ドッグみたいな関係でいけばいいんじゃないか?」という話になりました(笑)。



ーそこからはR-RATEDでの実績を積み上げていくことになるのですが、2010年には日米コンピレーションアルバム『24 HOUR KARATE SCHOOL JAPAN』をリリースしましたね。

福岡 日本でニューヨークの映像監督、ジョナ・シュワルツと知り合ったんです。それでニューヨークに遊びに行ったときに、ジョナの友達が家でクリスマス・パーティを開催してくれたんですけど、その人がデイモン・ダッシュ(ジェイ・Z率いるRoc-A-Fella Recordsの共同創設者)の弟で、そこにデイモン本人も登場したんですよ。それで私たちは日本でこういうことをやっています、って伝えたらスタジオに遊びにきなよと言ってくれて。デイモンはすでにRoc-A-Fellaを離れてBLU ROCというインディーズレーベルを運営してたんですね。それで後日DOJO(道場)と呼ばれるスタジオに行ったらビル一棟を貸し切ってて、1階がギャラリー、地下と2階にはスタジオや作業場、3階がパーティルームみたいな。そのスタジオにスキー・ビーツというプロデューサーがいて、彼はジェイ・Zの1stアルバムでも活躍している人なんですけど、そこにモス・デフやカレンシー、スモーク・DZA、ジェイ・エレクトロニカとかがセッションしに来ていたんです。カメラマンやデザイナーとかも作業場にいたりして、近くでライブがあるとなるとみんなで写真や映像を撮りに行ってそれをすぐに編集してWEBに公開、みたいなことをしていました。まだInstagramがない時代ですね。レコーディングした曲もすぐにジャケットを作ったり、さらにそのデザインのTシャツを地下でプリントしたりしてるんですよ。すごく理想的な事務所だなと思いました。

それである時デイモンに「今『24 HOUR KARATE SCHOOL』というアルバムを作っているんだけど、これの日本バージョンを作りなよ」とすごい軽いノリで言われて(笑)。「いいんですか?」ってなりました。14曲分くらいあるスキー・ビーツのトラックを日本に持ち帰って、NOBU a.k.a. BOMBRUSHくんにも協力してもらって各トラックに合いそうなラッパーに声をかけたんです。こんなチャンスはなかなかないと思い、なるべく幅広い世代、地域からピックアップしようと思って作りました。年末にはクラブチッタにスキー・ビーツと彼のバンドのThe Senseisを招聘して、アルバムに参加した全ラッパーとバンドセッションするという無謀なイベントもやって(笑)。DVDを観てもらえば分かるのですが、最後にステージに50名くらいのラッパーが上がってリード曲の「24 Bars To Kill」のインストで永遠にマイクを回すという時間もあって、ずっと同じトラックをループしていたNOBUくんも大変だったと思います(笑)。でもスキー・ビーツがジェイ・Zの「Dead Presidents」のピアノを披露してくれたり、奇跡的なイベントでした。



ーKOHHの作品に関わるきっかけは?

福岡 元々友達だった318(KOHHのプロデューサー)からの紹介で、初めてデモを聴いたときに新しい時代が来たねってなって、それで一緒にやることになった感じです。その頃は318とよく仕事をしていました。私がKOHHのA&RやPRを手伝って318がR-RATEDのT.O.P.のプロデュースを手伝ってくれたり、MVを撮ってくれたり。王子のスタジオにも遊びに行ったりして、そこにMonyHorseやJNKMNがいたり。2012年~2016年頃ですね。楽しかったです。



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