吉田拓郎の1970年代中盤、賞賛と中傷の両方を背に生きた20代後半を辿る



最初に発表されたのは、広島フォーク村のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』の中で、広島商大の後輩のバンドがこの曲を演奏していたんですね。彼の歌としては、1stシングル『イメージの歌』のB面曲が、『LIVE’73』でファンクに生まれ変わりました。世間で広がっているフォークの貴公子というレッテルへのアンチテーゼのような曲。プロデュースが瀬尾一三さんです。拓郎さんと初めてタッグを組んだのが、この『LIVE’73』。1973年11月26、27日、中野サンプラザ2日間。新曲がほとんどだったんですね。13曲中9曲が新曲だった。レコードの曲ではなくて、ライブで新曲を披露する、これも当時は前例がなかったんじゃないでしょうか。



1973年6月発売のアルバム『伽草子』から、タイトル曲「伽草子」。この曲も涙が出るくらいに好きでした。キーボードは柳田ヒロさんであります。作詞が白石ありすさん。小室さんの紹介で作詞を始めた女性ですね。メルヘン的なんだけれども、からっとしていてセンチメンタル。この空気は本当に沁みますね。何といっても拓郎さんの歌のフェイクが気持ちいい。どの曲でもそうなんですが、当時の他のフォークシンガーとは歌が全く違いました。

70年代前半の拓郎さん、激動の中を生きておりました。拓郎さんの功績、何度もお話していますが、一つはコンサートツアーという形を作ったこと。全国の町を回る。72年からなんですね。それまで地方のコンサートの形がなかった。労音とか民音とか鑑賞団体の例会だった。そういう中で、全国の学生さんが、拓郎の歌が聞きたいんだと自分のアパートの部屋に電話を引いて、事務所に拓郎さんに来て欲しいと伝えた。そこからイベンターという今の仕事が始まってます。拓郎さんの方は、アメリカにコンサートツアーという形があるらしい、それを日本でもやろうじゃないか、照明とか音響も自分たちでスタッフを集めて全国回ろうと。そういうことをやった人がいなかったんですね。できる人がいなかったんです。つまり、それだけお客さんが集まるアーティストがいなかった。初めて全国ツアーを組んだ。そのくらい空前の人気でした。

ただ、いろんな落とし穴が、あちこちに待ち構えておりまして、ツアー中に身に覚えのないスキャンダルに巻き込まれたこともありました。ファンの女性が彼を訴えたんですね。結果的に彼は無罪放免だったんですけど。そういう中で、アルバム『伽草子』は発売中止になるんではないかと危ぶまれた。そんな作品でもありました。後藤次利さん、チト河内さん、柳田ヒロさん、矢島健さん、そして吉田拓郎さん。このメンバーが中心でこのアルバムを作ったんですね。ギターの矢島健さんの代わりに小室等さんが入って組んだのが、新六文銭という伝説のバンドでありました。73年のツアーの前半は、新六文銭のツアーでした。

Rolling Stone Japan 編集部

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