泉谷しげる、90年代以降から「阿蘇ロック」に至るまでを振り返る



田家:あらためてこの曲ではどんなことを思われますか?

泉谷:後半とにかくずっとマスコミ攻撃をやっていたぐらい、自分は地獄絵を見たと思ってますね。あの現場に行って、そこで泣いてください的な悲しみの演出をしているカメラを見て、「卑劣だな、こいつらは」ってすごい怒りましたね。そこは演出するところじゃねえだろうというつもりでこの曲も書きました。怒りを込めてますね。だから、バンドでもやってないんです。これは全部俺の感覚でやって、巻き添えは作りたくない。俺一人の怒り。

田家:一人フォークゲリラってことですからね。アルバムが『メッセージ・ソングス』。メッセージ・ソングって言葉を使ってますもんね。

泉谷:そうです。意図的にやってます。これで世間的なこととか、ニュースに手を出しちゃったから終わりだなと思いましたけどね(笑)。完全終わりだな、これはって思った。

田家:それは覚悟してたんだ。

泉谷:してましたね。全部断ち切ってるわけですからね。言いたいことを言って、マスコミ攻撃をやっています。マスコミの1番いけないところは、そもそも破壊されたすごいところから撮って、大丈夫なところを紹介してくれないんだよね。助けに行けないだろうっていう。どこの道が大丈夫で、どこの道がダメかぐらいなことはしてくれないと。それでお父さんとか家族を失ったやつに「夕陽をバックに泣いてください」っという演出をやってるわけで。

田家:不幸と悲惨を演出して。

泉谷:そうそう。あれってどうなの? っていうことは散々言いましたね。

田家:で、札幌にいろいろな方たちが集まったことが広まっていって、翌年1994年3月には長崎公会堂で雲仙普賢岳チャリティコンサートが行われるわけで、ここに吉田拓郎さん、小田和正さん、井上陽水さん、伊勢正三さん、さだまさしさん、忌野清志郎さん、浜田省吾さん、大友康平さん。他にもまだまだたくさん集まったわけで、その話もまた伺います。

Rolling Stone Japan 編集部

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