インコグニートのブルーイが語る、ブリット・ファンクとアシッド・ジャズの真実

ブルーイ(Photo by Casey Moore)


ブリット・ファンクとは何だったのか?(2)

―ブリット・ファンクは、音楽的にはどんなものだったんですか?

ブルーイ:ハービー・ハンコック、ハーヴィー・メイソン、マイゼル・ブラザーズ、ドナルド・バードといったアメリカのジャズ・ファンクの影響を受けていた。でも、それらは「聴くための音楽」だった。ブリット・ファンクはそうではなく、ファッションやダンスなど、様々な要素が一緒に存在したムーブメントだったことが重要なんだ。

僕がキッズだった頃は、エセックスのキャンベイ・アイランドにあったGold Mine(※)というクラブに何度も足を運んだものだよ。このムーブメントではDJもバンドも同じイベントに出演していたし、一緒にパフォーマンスすることもあった。僕はそれ以前にそんな光景を見たことがなかった。それまでにいたゴンザレスやF.B.I.、サイマンデといったファンク・バンドが演奏するのはベニューやパブだったからね。でも、ブリット・ファンクのバンドはDingwallsやUpstairs @〜のようなクラブで演奏していたからDJとの繋がりが深く、クラブ・カルチャーの一部でもあった。そして、クラブではダンサーが踊っていた。バンドとDJとダンサーがシェイクされることでこのムーブメントが生まれたんだ。

※Gold Mineの様子はこの記事に詳しい。
https://shapersofthe80s.com/tag/gold-mine-club/


Gold Mineにおけるブリット・ファンクの熱狂を記録した動画

ブルーイ:バンドの目的はそこにいる人々を躍らせることで、DJとバンドが一緒になって場を作り上げた。僕らはDJがダンサーを踊らせるのをいつも見ていた。だから、僕らもレコードを作る際には視覚的な発想で曲のコンセプトを考えていた。ダンサーをどう躍らせるか、どうステップを踏ませるか、どういうモーションに導くのか、そのためにはどんなテンポがいいのか。そんなことを考えながら音楽を作っていたってことだね。

そして、音楽とダンスがあれば、必然的にファッションとも繋がってくる。ブリット・ファンクはただのジャンルではなく、同じ傘の下に集まった人たちによるムーブメントであり、君がさっき見せたレコードに入っているのは「ダンサーのための音楽」なんだよ。レベル42のマーク・キングがスラップベースを奏で続け、そこからブレイクしたところでダンサーがスピンして、ストップして、そこで観客が「フゥー!」と盛り上がるわけだ。僕も演奏していたフリーズというグループにしたって、「フリーズ」は「動きが止まる」って意味だったわけだしね。



―80年代のイギリスには、DJがジャズをプレイして踊らせるムーブメントもありましたよね。そのための楽曲を収録した『Jazz Juice』(1985年)『Blue Bop』(1986年)といったコンピレーションの選曲をしていたのが、他ならぬジャイルスだった。そういったDJ主導によるジャズのムーブメントがアシッド・ジャズへと発展していったわけですが、それらのコンピよりも前にブリット・ファンクがあって、バンドとDJとダンスが一緒になったシーンがあったということでしょうか?

ブルーイ:間違いないね。クラブでその(レコードに収録されている)チューンを初めてプレイしたDJなら全員知ってるよ。彼らはアメリカに行って、レア・グルーヴを持ち帰ってきていた。それを僕たちがインフォメーション(情報)として……いや、インスピレーション(影響源)として聴いていたんだ。DJたちはジョニー・ハモンドのような、彼らがプレイしなかったら僕らは知らないままであったであろうレコードを持ち帰っていた。その中には小さなレコード店を始めた連中もいて、おかげで白盤なんかも買えたりした。僕もノース・ロンドンに小さなレコード店を構えていたことがあって、その頃はビルの2階でバンドのリハーサルをして、1階でレコードを売っていたよ。


ジョニー・ハモンド『Gears』(1975年)。マイゼル・ブラザーズがプロデュースしたジャズ・ファンクの名盤。

ブルーイ:あとはとにかく、色々なバンドやDJに出会うため、南から北までたくさん動き回った。DJとミュージシャンが一つになれる場所を見つけては集まり、週末のイベントを開いたりしていたんだ。そのムーブメントがなかったら、ブリット・ファンクはあそこまで大きくなっていなかったと思う。ただのジャズ・ファンクかフュージョンの集まりになっていたかもしれないね。でもブリット・ファンクには、ミュージシャンの背中を押してくれるDJがいた。僕たちにダンスカルチャーを紹介し、新しい領域へと導いてくれたのは彼らだったんだよ。

もしミュージシャンが「踊らせること」を意識していなかったら、演奏しても観客はみんな同じ動きをしていただろう。首を縦に振るだけとかね。でもブリット・ファンクには、スウィングやスピン、ジャンプを見せてムードをとらえ、盛り上げてくれる観客やダンサーがいたんだ。同じ音楽を聴いてみんなが同じ動きをするのではなく、自由に好きな動きをすることができる。その自由さも重要なポイントだったと思うよ。

雑誌の存在も大きかったね。それまでイギリスでは『Melody Maker』みたいな雑誌が売れていたけど、そこに載ってるのはロックバンドの情報ばかりだった。でも、『Echoed Magazine』『Blues & Soul』が出てきたおかげで、ようやくジャズやソウル、ファンクの情報が得られるようになったんだ。


『Blues & Soul』の表紙を飾ったブリット・ファンクの代表的バンド、セントラル・ライン。画像は下記URLより引用。
https://www.raresoulman.co.uk/271033-blues-soul-350-february-23-1982.html



―STR4TAの楽曲「Vision 9」にはフラジリアン・フュージョンのような爽やかなフィーリングも感じられました。ブラジル音楽がブリット・ファンクに与えた影響も大きかった?

ブルーイ:そうだね、キューバやブラジルの影響も入っていた。なぜなら、当時のDJがプレイしていた音楽の一部だったから。僕らはアジムスの「Jazz Carnival」で踊っていたんだ。ジョージ・デュークの昔の作品は踊れなかったけど、(ブラジル音楽の要素が入った)「Brazilian Love Affair」はフロアで弾けまくっていたね。サルサ・レコードだけどファンクっぽいものもあったし、ニューヨーク・サルサ・ファンク系のシーンもあった。それをDJがプレイしていたからバンドも影響を受けていたんだ。当時のブラジル音楽にはファンクの要素が含まれていたしね。アジムスもそうだし、マルコス・ヴァーリやバンダ・ブラック・リオもファンクをフォローしていた。





―昔から疑問なんですけど、なぜイギリス人はそんなにブラジル音楽が好きなんですか?

ブルーイ:それはサッカーだよ。

―というと?

ブルーイ:僕は1970年にメキシコW杯をテレピで観て、そこで初めてサンバ・ミュージックを耳にした。メキシコのバンドがすごく単調な応援に聴こえたのに対し、ブラジルの応援団はリズムがまるで違った。スタンドにドラムまで持ってきててさ。「いったい何が起こってるんだ!?」って感じだったよ(笑)。フィールドでペレがドリブルをしているのも、まるでダンスしているかのようだった。カルロス・アウベルトも、トスタンも、リベリーノも、ペレも、みんなフィールドで舞っていた。ボールを使ったあのスピンやフォーメーションは、もうダンスにしか見えなかった(笑)。イギリス人は自分のチームが負けると、より魅力的なチームを応援する。だから、あの時イギリスが負けたあとは、みんなブラジルのサポーターになったんだよ(笑)。

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