追悼チック・コリア ジャズの可能性を広げた鍵盤奏者の歩み

チック・コリア、1977年撮影(Photo by Dick Barnatt/Redferns)


数奇な歩みとフュージョン革命

コリアは1941年6月12日生まれ、ボストン近郊出身(本名はアルマンド・アンソニー・コリア。生涯続くチックというニックネームは、彼の叔母が頬をつねって「生意気な子ね(Cheeky)」と呼んでいたことに由来する)。彼の父親はディキシーランド・スタイルのジャズトランペット奏者で、息子にピアノの手ほどきをした。もっとも、コリアは幼少期にドラムも演奏していた。彼は一時期コロンビア大学とジュリアード音楽院に通ったが、すぐに学校をやめてゲッツやマン、ブルー・ミッチェルといった名のあるミュージシャンたちとギグをするようになる。60年代後期にはすでにバンドリーダーとしての才能を発揮し、1968年にはベースにミロスラフ・ヴィトウス、ドラムにロイ・ヘインズを迎えてアルバム『ナウ・ヒー・シングス、ナウ・ヒー・ソブス』をリリース。モダンジャズ・ピアノ・トリオの新たな金字塔を打ち立てた。



マイルスとの活動は、正規のスタジオアルバムを1枚も出さずに一過性に終わったバンド、ロスト・クインテットから始まった。「本当に大失敗だった」と、マイルスは同バンドについてこう語ったこともあるが、その前にマイルスが組んだ5人組バンドの野心的なポストビバップと、思い切って抽象的にしたフリースタイルのインプロビゼーションを取り入れたという点でずば抜けていた。このバンドでコリアは、当初懐疑的だった電子ピアノを演奏している。彼はその後も『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチェズ・ブリュー』『ジャック・ジョンソン』『オン・ザ・コーナー』など、マイルスの名だたるアルバムに参加した。

1972年、コリアはリターン・トゥ・フォーエヴァーを結成。バンドの第2期には――ベースにスタンリー・クラーク、ドラムにレニー・ホワイト、ギターにビル・コナーズ(後任はアル・ディ・メオラ)――ジョン・マクラフリンのマハヴィシュヌ・オーケストラやウェザー・リポートと並んで、当時のジャズロック・ムーブメントを牽引した。前衛的で華やかなサウンドはジャズ界のみならず、バッド・ブレインズのメンバーやリヴィング・カラーのヴァーノン・リードなど、ロックアーティストにも大きな影響を及ぼした。



「鳥肌が立ったよ」。リターン・トゥ・フォーエヴァーの1973年の名盤『第7銀河の讃歌』のタイトルトラックを作曲したときのことを、コリアはこう振り返っている。「ものすごくエキサイティングだった。仕上がりも完璧で、誰もが興奮していた。あの曲が新しい方向性を示し、そこから膨らんでいった。演奏する会場も前より広くなって、観客はバイブを感じてくれた。俺たちが紡ぎ出す音と観客の受け止め方が相まって、相乗効果が生まれた」

Translated by Akiko Kato

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