ジョニー・キャッシュ、新ドキュメンタリー『The Gift』で描かれた10の真実

2. テキサスで兵役に服したばかりの頃、キャッシュは最初の妻であるVivian Libertoと出会った。

キャッシュは朝鮮戦争勃発の1週間前に空軍に入隊しているが、彼が赴いたのはドイツだった。1951年7月に、2人はサンアントニオのセント・メアリーズにあったアイススケート場で出会った。「私たちは既に結婚について話し合っていた」彼はそう話している。「式の日取りについても決めていた。(空軍での兵役の大半を過ごしたドイツから)戻って来たらすぐに、彼女と結婚するつもりだった。私は家庭を築きたかったんだ」やがて2人は、ロザンヌ、キャシー、シンディー、タラという4人の娘に恵まれる。またキャッシュは当時、歌手になりたいという願望についても語っている。「良き家庭人であり、優れたミュージシャンでもありたかった」彼はそう話している。

3. 軍隊では語学の才能を生かした任務を与えられていた。

口頭でのやり取りの聞き取りに優れていた彼は、ラジオの電波妨害という任務を与えられていた。「父は単語や文章、それにリズムがどのように組み合わされるのかを熟知していました」彼の息子のジョン・カーター・キャッシュはそう語っている。3年間にわたって海外での生活を強いられた彼は、任務期間中に1951年発表の映画『 Inside the Walls of Folsom Prison』を観たとしており、同作にインスパイアされた「Folsom Prison Blues」を1953年に発表している。1968年に発表された同曲のライブバージョンは、カントリーチャートで首位を記録した。「私は犯罪者たちの視点で歌っている。ぞっとするような話を音楽として楽しむということに、多くの人々が興味を持ったんだ」同曲における最も有名な一節「俺はリノで男を撃った 人が死ぬところを見たかったんだ」について、彼はそう語っている。

4. キャッシュはクリエイティブ面での自由を求め、サム・フィリップスのSun RecordsからColumbia Recordsに移籍した。

ポップに接近した「アイ・ウォーク・ザ・ライン」を含め、キャッシュはSun Records在籍時に大きな成功を収めたが、ゴスペルのレコードや様々なコンセプトアルバムの制作を認めることを条件に、彼はColumbia Recordsに移籍する。その宣言通り彼は、全編にスピリチュアルなメッセージを込めたアルバムや、アメリカの原住民に対する意識の向上を訴える作品などを発表した。移籍は商業的成功と創作面での自由をもたらしたが、一方で結婚生活の破綻と、以降何十年にもわたって苦しむことになる薬物中毒という弊害ももたらした。「子供たちと妻には苦しい思いをさせてしまった」キャッシュはそう語っている。

Translated by Masaaki Yoshida

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