村井邦彦が語る、「キャンティ」創業者・川添浩史を描いた著書『モンパルナス1934』



田家:1978年に発売になったアルバム『YellowMagicOrchestra』から「東風」。小説から話がそれるんですけど、これは坂本龍一さんの作曲で龍一さんのことであらためて思われることは?

村井:もっと仕事をして、いい曲を書いて演奏もしてもらいたかったですよね。幸宏も連続ですからね。細野くんと先週会ったんだけど、やっぱりまだガックリしていました。当分立ち直れないんじゃないのかと心配です。

田家:ですよね。「モンパルナス1934」は坂本さんにも読んでほしかったでしょうし。

村井:そうなんですよ!

田家:いろいろ響くこともあるんじゃないかと思っております。この「モンパルナス1934」は1から14までエピソードがあって、2から10がヨーロッパ時代、10が1940年1月。紫郎さんは上海経由で神戸に帰ってくる。ヨーロッパの当時の時代背景、ディテール。特にパリのディテールがおもしろかったですねー。

村井:ヒトラーもスターリンも抽象芸術が嫌いなんですよ。抽象芸術家に対する弾圧がすごくあって、ドイツ、ソ連、ポーランド、ハンガリーなどから芸術家がどっとパリに逃げてくるという社会状況だった。ユダヤ人への弾圧もひどくなってきたからユダヤ系の人々もパリに逃げてきた。モンパルナスは今でこそ繁華街ですけど、昔はちょっと場末感のあるところで家賃も右岸や左岸のサンジェルマンに比べるとずいぶん安かったようです。ですから母国を離れてパリに逃げてきた芸術家たちの多くはモンパルナスに住んだようです。元々、第一次世界大戦の前からモンパルナスは生活費が安いので芸術家の集まる土地柄だったんです。藤田嗣治、モジリアニなどなど数え切れないほどの多くの画家が住んでいました。

田家:喫茶店、というよりお酒も飲める食事もできる、パリならではのカフェの名前も出てきましたね、特にラ・クボール。

村井:はい。ラ・クーポールは1927年に創業した店です。できた時から地元に住む画家や芸術家の溜まり場になりました。大きくて立派なカフェですが、マキシムズみたいな格式のある高級レストランではなくて、みんなが普段の生活で朝起きたらコーヒー飲みに行くとか、夜になると酒を飲んだりご飯を食べたりするところです。出される料理は家庭料理みたいなものばかりですが値段は普通のカフェよりはだいぶ高いです。その分味もサーヴィスもいいです。そういうのを真似して、川添さんはキャンティを作ったんだと思います。

田家:ラ・クボールって今でもあるんですか?

村井:もちろんあります! 僕は1970年代ぐらいから通い詰めた。パリに行くと、必ず行きます。すごく大きいんですよ。大学の学食の巨大版みたいな感じです。ガラス戸で仕切られた別室のバーや道路に張り出したテントの下の席があって、食事をする部屋は天井も高くて気分がよくなるところです。冬になると牡蠣だとか、エビだとかはまぐりを載せる台が外に置かれてその横で牡蠣を剥く人がものすごいスピードで牡蠣を剥いている。

田家:そういうカフェの名前とか通りの名前、ジョルダン通りとかシテ・ユニヴエルシテール駅とか、本当に具体的ですもんね。バーで頼むお酒の名前とかカーチェイスがあったり映像が浮かんできて、その時に運転手さんがどういう人だったかというストーリーまでもちゃんとお書きになっている。

村井:小説を書いていて楽しいのはそういうディテールを考えることなんです。「メーキング・オブ・モンパルナス1934」の一部を披露しますね。田家さんがおっしゃるカーチェイスのシーンはパリのリヨン駅から始まってモンマルトルのサクレクールのあたりで決着がつきます。逃げるのはボロボロのルノーの白タクに乗った紫郎、追うのは特高警察の回し者と思われる男で運転手付きの最新型の大型ベンツに乗っています。Googleマップで地図を見て線を弾きながらどういうルートにしたらいいか考えました。

田家:自分が運転しているような気分で(笑)。

村井:僕はパリでは自分で運転していましたから道には詳しいんです。一方通行とか結構頭に入っている。リヨン駅からセーヌ川左岸に出るルートは自分で作りました。右岸に出てからはクロード・ルルーシュ監督が1976年に作った9分の短編映画「ランデヴー」のルートを参考にしました。早朝のパリでフェラーリが暴走する実写の短編映画です。ボロボロのルノーと最新型のベンツとの戦いですから広い道ではルノーには勝ち目がありません。「ランデヴー」のラストシーンに出てくるモンマルトルの丘の上の、車が一台しか通れないような細い迷路のような道に勝負を持ち込み逃走に成功するのです。「ランデヴー」を吉田さんに見てもらって文章化してもらいました。名文になりものすごく迫力が出ました。

田家:白タクの運転手さんがベルリンでマルキシズムとファシズムの研究をしたユダヤ系フランス人で、ベルリンからパリに逃げてきた人だったという。

村井:紫郎と運転手にマルキシズムとファシズムの話をさせようと考えました。吉田さんにこれは普通の運転手ではなくて、インテリが失業して運転手をしてる想定にしようと提案しました。カーチェイスしながらファシズムとは何かとか、自由とは何かという会話をさせたかったのです。紫郎は21歳だから、運転手はもうちょっと年上のインテリがいいと考えました。高等師範学校というエリートが行く文化系の学校の卒業生リストを調べました。紫郎より何歳か上の社会学者レーモン・アロンが適役だと思いました。ジャン・ポール・サルトルと同級生です(笑)。吉田さんにレーモン・アロンを白タクの運転手にしましょうと言ったら、「それではあまりあからさまなので、名前をモーリス・アロンに変えましょう」と言うのでこの運転手の名前はモーリス・アロンになりました。

田家:そういう会話をしたら連日長文のやり取りになりますね。そうやって生まれた小説です。歴史フィクションという言葉を今回使われておりまして、ディテール、人物、実際のことが小説になっている中にさっき少しおっしゃった時代背景。スターリンとナチスがせめぎ合ってみたいな時代で、日本のその時代のこともたくさん書かれていて。満州に進出して国際連盟を脱退して、日独協定を結んでファシズムの一族を担う形で戦争に入っていく。それをヨーロッパからお書きになっているのがものすごく自然だったんです。

村井:日本人が世界の歴史を考えるとどうしても日本を中心に考えてしまう。吉田さんと話したのは、俯瞰して地球の歴史を見られるようにしようということでした。スペイン市民戦争(1936年)と日中戦争(1937年)はほぼ同じ時期に起こっています。紫郎の親友で報道写真家のロバート・キャパはスペイン市民戦争の写真で有名になり、1938年にはタイム誌の依頼で中国に行って日中戦争の現場や蒋介石や周恩来の写真を撮っています。キャパは民衆からの目線で写真を撮っている。紫郎は日本人ですから日本のことを弁護したいのですが世界は自由主義の人たちの陣営に傾いていくわけです。紫郎とキャパは距離が遠くなってしまったと感じたかもしれません。

田家:第二次世界大戦後、キャパがインドシナに行く前に東京でお会いになっている話もありましたもんね。アヅマカブキの最中に日本に帰ってきて。ロバート・キャパは紫郎さんが無名時代に出会っていて、ユダヤ人でカメラを買うお金がなくて、毎日新聞からライカを借りて写真を獲って、そこから戦争の写真を撮るようになった話もありました。

村井:それは事実なんですよ。キャパはモンパルナスの紫郎の家の居候だったこともありました。本当に仲の良い仲間だったのです。戦争が終わって紫郎とキャパは日本で再会します。戦争を挟んで十数年間会っていませんでした。でも若い頃の親友たちですから固く抱擁し合って再会を喜びました。二人とも感無量だったでしょう。一月ほど日本で毎日一緒に過ごした後、キャパはインドシナ戦争の取材に出かけて地雷を踏んで即死しました。キャパの死後、川添さんはパリ時代の仲間の井上清一さんと一緒にキャパの書いた「ちょっとピンぼけ」を翻訳して出版するのですが、そのあとがきにキャパとの出会いと別れを切々と書いています。

田家:そういう中で自由が生まれていく。今の世界と同じだなと思って読んでました。

村井:結局人間って自由を求めて生きていくんです。川添さんの遺言の中にそういうことが書いてあったそうです。僕はその遺言は読んでいませんけど、次男の川添光郎が川添さんが「人間は自由でなければいけな」と書いていたことを教えてくれました。それもこの本のテーマの1つなんです。

田家:1945年8月15日に疎開先の山中湖で4歳の象郎さんにこれからは自由の時代だというふうに言い聞かせるところで、話が終わっています。それは本のメインテーマがこれなんだなと思ったりしました。

村井:その通りですね。僕たちが川添さんから受け継いだ精神の中の最も重要なところですね。あともう1つ、川添さんは「美は力」だと言っていました。「美しい」ということがお金や権力に対抗できる力なんだよということを教えてくれました。それも僕の人生を決定した言葉の1つです。

田家:YMOをもう1曲お聴きいただこうと思います。1979年のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』から「BehindTheMask」。

Rolling Stone Japan 編集部

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