村井邦彦が語る、「キャンティ」創業者・川添浩史を描いた著書『モンパルナス1934』



田家:荒井由実さんの1974年のアルバム『MISSLIM』から「私のフランソワーズ」を選んでみました。ユーミンには当時の日本女性ミュージシャン、アーティストの中では珍しくヨーロッパ嗜好を感じていたんです。この曲があったので、そうか、フランソワーズ・アルディかと思ったんです。

村井:ユーミンの『MISSLIM』のジャケットの写真は川添浩史さんの妻、梶子さんのアパートで撮影されました。ユーミンの着てる服は梶子さんが選んだイヴ=サン=ローランのデザインのものです。

田家:ピアノも梶子さんのものなんですか?

村井:ピアノは梶子さんの友人の花田さんのものです。花田さんの麹町の家にあった古い自動ピアノなんですけど、花田さんが引っ越してピアノの置き場所がないので梶子さんのアパートに置いてあったんですよ。

田家:川添梶子さんと花田美奈子さんは本のエピソード1で登場します。本はエピソード1から14までありまして、エピソード1がカンヌ、1971年1月。ここに村井さんがなぜ紫郎さんのことを書こうと思ったのかということが書かれていましたね。

村井:実は梶子さんはジャケット撮影の4カ月後1974年の5月に亡くなってしまうのです。1970年にご主人の川添浩史さんが亡くなって以来すごく落胆していて元気がなかった。なんとか気晴らしをして欲しいと思って梶子さんに「カンヌでミデムという音楽見本市があるのだけれど一緒に行きませんか」と誘いました。梶子さんにとってカンヌは川添さんとの思い出が沢山あるところなのです。「行こうかしら」と梶子さんは言いました。花田美奈子さんも「私も心配だからついていく」って3人でカンヌに行くことになりました。ミデムの後カンヌから車でパリまで僕が運転して、パリに着いた時に僕は梶子さんから「あなた紫郎のことを本に書いてよ」って頼まれるのです。

田家:本を書き始めるに当たって、この1971年1月に梶子さんからそういうふうに言われたところから始めなければいけない必然性があった。村井さんはアルファ・ミュージックを始められる時に川添浩史さんがいなかったら始められなかったと言っていいくらいに近いご関係なわけでしょ?

村井:そうですね。川添浩史さんは、フランスのバークレー・レコードの創業者であるエディー・バークレーと親しかった。タイガーズが解散して加橋かつみがソロになる時にエディー・バークレーが日本のアーティストと契約したいと言うので川添浩史さんは加橋かつみをバークレーに紹介した。そして息子の川添象郎をプロデューサーとして送りこんだわけです。象郎から僕に電話がかかってきて「パリで録音しているんだけど来ないか」って言われて行ったんです。2カ月ぐらい滞在しました。その滞在中、僕はバークレー・レコードの音楽出版部門と仕事することになって、それをきっかけにアルファ・ミュージックを作ったんです。バークレー・レコードの出版部門が持っていた曲で、後にポール・アンカが英語の詞をつけた「マイ・ウェイ」という曲の出版権を獲得したんです。

田家:その頃に紫郎さんとはどのくらいの頻度でお会いになったり、どんな話をされてたりしたんですか?

村井:川添浩史さんと梶子さんがキャンティを始めたのは1960年で僕は15歳でした。息子の川添象郎、光郎兄弟と親しかったのでキャンティには年中行っていました。キャンティはお二人の自宅の延長のような感じでした。世界中の友人たち、日本の友人たちがお二人に会いにくるのです。友人の多くは音楽家、絵書き、建築家、舞踊家、デザイナー、作家などの芸術家でした。川添さんは「キャンティは子供の心を持った大人と、大人の心を持った子供のために作られた場所です」といつも言っていました。子供と大人を分けないで同じ席に座らせるのです。おかげで僕は作曲家の黛敏郎さんや画家の今井俊満さんのような先輩たちの会話を聞きながら育ちました。大学に行くようになって川添浩史さんのやっていた「アスカ・プロダクション」で手伝いをしました。川添象郎が作った「エル・フラメンコ舞踊団」の全国公演の制作助手のようなことをやって、川添浩史さんにくっついて法務省に行ったり、プログラムの原稿を集めをしたりしていました。だから川添浩史や梶子さんと一緒にいた時間は長かったです。

田家:浩史さんと梶子さんのストーリー、いろいろな要素がある小説だなと思ったのですがラブストーリーでもありますもんね。歴史を題材にしながら、こういうとっても身近なラブストーリーになっていることも、本の1つの特徴に思えたので次はこの曲をお聴きいただこうと思います。リュシェンヌ・ボワイエで「聞かせてよ愛の言葉を」。

聞かせてよ愛の言葉を / リュシェンヌ・ボワイエ

村井:この曲は小説の最初の部分と中間と最後の部分に出てくる重要な曲です。この曲を提案したのは共著者の吉田俊宏さんでした。この曲は川添紫郎がマルセイユに到着する1934年にヒットした曲なんです。吉田さんはちゃんと調べて裏を取っているのです。小説の中に出てくる音楽、例えば紫郎がカールトンホテルのダンスパーティーで日本の武道のような踊りを踊る時の音楽は曲名は書いてはいないんだけど、キャブ・キャロウェイの曲です。キャブ・キャロウェイは1934年にはヨーロッパツアーをしているわけ。キャブ・キャロウェイのバンドがカールトンホテルで演奏していて、そこで紫郎が踊るという想定です。いちいち全部裏をとっているのは新聞記者である吉田俊宏さんの手法に習いました(笑)。

田家:最後に村井さんがYMOの成功を社長室でお聞きになって、涙を流される。その時に出てくるのもこの曲「聞かせてよ愛の言葉を」ですよね。

村井:そうです。「モンパルナス1934」には音楽だけでなく文学からの引用も沢山あります。一番重要な引用はポール・ヴァレリーの講演録「地中海の感興」からとったものです。この講演で、ヴァレリーは少年の頃生まれ故郷の南仏セットの海で泳いでいた時に見た光景を語っています。その頃、セットではマグロ漁業がすごく盛んでした。ヴァレリー少年は真っ青な海の中に真っ赤な血だとか、ピンク色や紫色の異様なものが大量に漂っているのを見ます。それは肉だけを取りさられた大量のマグロの残骸でした。ヴァレリー少年はこの光景を嫌悪するのですが、好奇心にかられて目を離すことができません。ヴァレリーはギリシャ悲劇の残酷なシーンを見ているような気持ちになり、それが美しいとも思い始めるのです。地中海ではギリシャ・ローマの頃から今に至るまで数々の戦争がありました。地中海の水を全部汲み取ることができたなら、海底からギリシャ・ローマ時代の船や馬や兵士の死骸とか財宝だとか、悲劇的な戦争の跡が大量に出てくるでしょう。ヴァレリー少年が見たこの光景は紫郎の脳裏を離れることなく何度も思い出されるのです。このヴァレリーの文章を音楽で言う通奏低音みたいにして、小説の始まりから終わりまでずっと流していこうとを考えたのです。

田家:それは小説ならではですね。事実がリアルにドラマチックに織り込まれておりまして、紫郎さんがどういう人だったか、これも僕は初めて知ったのですが後藤象二郎さん、明治維新の立役者の。お孫さんだったというのは聞いていましたけど、彼がなぜフランス、モンパルナスに行くようになったか経緯とか、向こうに行って彼がどういう立場で動いていたかみたいなことを初めて知りましたね。左翼運動をやってらしたというようなこととか。

村井:1930年代の始め日本の多くの若者がマルキシズムに傾倒しました。それに対して特高警察が取締を強化して、1932年には600名とか大変な数の旧制高校の生徒を逮捕するんです。川添さんも逮捕された学生のうちの一人でしたが、フランスに行ってしばらく日本に帰ってこないことを条件に釈放されました。後藤象二郎の孫だったから特別扱いだったのかもしれませんが、パリで出会い紫郎の終生の友となった井上清一さんも同じように熊本の旧制五校生の時に逮捕された人でしたから国外追放の例は他にも沢山あったのかもしれません。

田家:船の中にまで特高が尾行しているという話で、それがエピソード2ですもんね(笑)。今日の3曲目はお話の中でも重要な場面で出てくる人たちです。YMOで「東風」。

Rolling Stone Japan 編集部

Tag:

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE