バービーと原爆:「#Barbenheimer」が浮き彫りにした「軍事」と「フェミニズム」という難問

核とセクシュアリティ

ビキニ、リタ・ヘイワース、そして快楽の首都ラスベガスのイメージが重ね合わされることで、原子力爆弾は、極度にセックス化され魅惑化されていったが、兵器と女性の結びつきは、このときに生まれたものではない。それは、すでにアメリカ文化のなかで、戦闘機を機体を彩るピンナップガールの図像や、性的欲望を喚起するセクシーな女性を「Bombshell(爆裂弾)」「Dynamite(ダイナマイト)」と呼びならわすスラングを通してミーム化していた。原爆は、その人智を超えた破壊力によって、兵器をめぐる人びとの想像力や欲望を、それまでとは異なるレベルにまで引き上げた。

放射線の被害が長らく過小評価され続けていたとはいえ、原爆の危険性に世の中が気づかなかったわけではない。1946年の「The New Yorker」の記事を初出とするジョン・ハーシーの著書『Hiroshima』は、6人の生存者の証言を元に広島の惨状を描き、「人びとの脳裏に原爆がもたらす地獄を焼きつけた」とコーコランは書いている。また、1954年の第五福竜丸の被曝が契機となって、放射性降下物の危険が急激に認知されるようになったとしている。ちなみに、日本において核爆弾を表象する最大のアイコン、"水爆大怪獣"の「ゴジラ」がスクリーンに登場したのも同じ1954年だった。

原子力爆弾の危険を認識した上でもなお、アメリカでは、原爆の魅惑化が止まることはなかった。それどころか、核の恐怖は、むしろその誘惑を強化し、補完するものでもあった。世界に投下された4番目の原子力爆弾が、リタ・ヘイワース演じる妖艶な「ファムファタール」に因んで名づけられたことの含意をコーコランは、こう説明する。

 「ミス・アトミック・ボム」の歴史に関する洞察に満ちた記事の中で、Masako Nakamuraは原爆のイメージと女性のセクシュアリティの対比の、より広い社会的意義をこう強調している。

 「ひとたび原爆が美しい白人女性のセクシュアリティや肉体と結びつけられると、原爆とその致命的な力は、いまにも爆発しそうな、魅惑的で、欲望を抱かせるもの、それでいて飼いならすことのできるものへと変容した」


 女性性は、放射性降下物と同様に、神秘的でパワフルな力とみなされた。それはともに驚きと欲望と不安を呼び起こした。冷戦初期の原子力をめぐる支配的な物語は、この手に負えないエネルギーは、アメリカの道徳的権威に従って適切に封じ込められたなら、人類に奉仕し、より強いアメリカの礎になる、というものだった。燃料、輸送、医療といった分野で利用できるよう飼い慣らすことで、原子テクノロジーは、きらびやかな新世界の基礎を築くことができるというわけだ。


 女性のセクシュアリティもまた、このユートピア的未来志向の物語の一部をなしていた。強いアメリカを実現するためには、家族の強化が必須であり、女性性と性的魅力は結婚、一夫一婦制、母性によって飼いならされ、服従させられる必要があった。


 第二次大戦後の核をめぐる言説と女性をめぐる言説の類似は容易に見てとることができる。それを核のセクシュアル化と見るのか、官能の領域に軍事兵器が入り込んだと見るのか、いずれにせよ、女性性と放射能の融合が支配と征服という問題に根ざしていたことは明らかである。


映画『バービー』のなかで「ファシスト」と罵倒されるほどに女性への抑圧を体現していた「バービー人形」が初めて披露されたのは、1959年のことだった。原爆と女性の歴史を踏まえて改めてバービー人形を見つめ直すなら、そこに、まさに女性性と性的魅力を「結婚、一夫一婦制、母性によって飼いならされ、服従させられた」女性の姿を見出すことができるだろう。


1959年に誕生した最初のバービー人形(Photo by Frederic Neema/Sygma via Getty Images)


人道主義を「軍事化」する

映画『バービー』は、もちろん原爆とは一切関係がない。しかし、それが日本への原爆投下の舞台裏を描いたとされる『オッペンハイマー』と同時に公開され、並べて語られたことで、映画『バービー』と、その主人公である人形には、思わぬ政治的論点が含まれていたことが明らかになる。「軍事」と「フェミニズム」という論点だ。

一橋大学大学院教授の佐藤文香は、『女性兵士という難問:ジェンダーから問う戦争・軍隊の社会学』のなかで、冷戦終結後に、とりわけ西側の軍隊が従事するようになった「平和任務」について、こう書いている。

 今日では、多くの軍隊が、国土防衛というより他国と協力しながら、国境の外側における安全保障状況に関心を向けるようになっている。この現象を「ポストナショナルな防衛」と名づけたスウェーデンのフェミニスト国際政治学者アニカ・クロンセルは、軍隊はますます平和任務に従事し、「人権」の名のもとに遠くの他者を救うため国境を超えていると述べる。この「利他的」なアジェンダは、実際はネオリベラルなイデオロギーに特徴づけられており、世界の国々と経済を民主化・自由化しようとする。進歩、秩序、競争、経済合理性といったネオリベラルな諸観念をともないながら、ポストナショナルな防衛は国家間の介入を普通のこととし、人道的活動を軍隊の任務と結びつけている。

佐藤は、こうした状況のなか、「善き(グローバル)社会」の一員としてポストナショナルな防衛に参加するにあたって、日本の自衛隊において女性性や女性、あるいは「女性の活躍」といった言葉が、どのように利用されてきたかを詳細に分析した上で、こう語る。

 女性たちにはある男性たちよりスムーズな平和任務の遂行が期待され、時には軍隊の悪評の「解毒剤」とされるのだ。

 こうした女性たちの活動の重要性と有用性は疑いようもないが、そこに隠れたアジェンダが作用しているのではないかと問う必要があるだろう。こうした利他的で人道的な活動は、軍隊の暴力の現実を覆い隠し、帝国主義的アジェンダの遂行を助けているかもしれない。タフで優しい「平和の戦士姫」は、殺し、傷つけ、破壊するよりも、救い、ケアし、建設するという新たな軍隊イメージの構築にどのように寄与してきたか/いるのか?


佐藤は、2001年にカナダが中心になって提出された『保護する責任』と題された報告書を、軍隊の平和任務化や利他化をもたらした転機だと記している。その報告書は、国家主権は「権利というより責任」であると位置づけることで、国家がその責任を果たしていないとみなされた場合、市民の「保護」を理由に他国による介入を可能にした。つまりこの報告書を機に、「人道」「人権」といった名目で他国への軍事介入が正当化されることとなったというのだ。そして佐藤は、ここで提示されたアジェンダを、「軍隊を人道化するというよりは、人道主義を軍事化するもの」と鋭く批判している。

念をおすと、映画『バービー』は軍事や戦争とはなんの関係もない。むしろ映画『バービー』は、かつて原子力との類比のなかで、服従させられ、完璧であることを求められた状況から、バービーが自分自身を解放する物語となっている。であればこそ、作品は、ハイパーマッチョな男性原理に支配されてきた軍事と、女性との結びつきを絶つことを描いた映画であってしかるべきだ。

けれども、佐藤の指摘通り、西側諸国がすでに「人道主義を軍事化する」ことを旗印に掲げているのであれば、マーゴ・ロビー演じるところの、優れたバランス感覚をもつ人権派で人道主義者のバービーは、かつてのリタ・ヘイワースやラスベガスのビューティ・クイーン同様、容易に軍事化しうる存在へと舞い戻ってしまいかねない。加えて、主演のロビーが、どう転んでも「ブロンドのBombshell」の典型に見えてしまうことも、事情をややこしくしてもいる。

(本作のプロデューサーでもあるロビーは当初、ガル・ガドットにバービー役を依頼したそうだが、それが叶っていたとしたら、第一次大戦でドイツと戦った「ワンダーウーマン」のイメージが重なってきて、それはそれでややこしい)

「#barbenheimer」が明らかにしたバービーとオッペンハイマーの絵的な相性の良さは、アメリカを中心とした西側諸国の軍事アジェンダの素顔を、図らずも、映画製作者の意図とは関係なく、暴いてしまっていたのかもしれない。

コーコランのエッセイにある以下の一文は改めて象徴的だ。「アメリカの道徳的権威に従って適切に封じ込められたなら、人類に奉仕し、より強いアメリカの礎になる」。アメリカが奉じる「道徳」の内容は、50年代から、たしかに大きく様変わりしているだろう。けれど、果たして、この構文の構成自体は果たして、どこまで変わっているのだろうか。「人権」を旗印に「道徳的権威」のもと行われる「封じ込め」、それにともなう暴力や破壊を、冷戦終結後の世界は幾度となく見てきた。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE