バービーと原爆:「#Barbenheimer」が浮き彫りにした「軍事」と「フェミニズム」という難問

Photo by Ian Waldie/Getty Images / CORBIS/Corbis via Getty Images

ファッションドールの世界を実写化した、グレタ・ガーウィグ監督による2023年最大の話題作『バービー』が日本でも公開スタート。内容が気になりすぎるあまり、先に公開されたアメリカでの考察記事やネタバレ動画を隅々までチェックしてきた若林恵(黒鳥社)は、もちろん本作を公開初日の朝イチで鑑賞。勢いそのままに本稿を書き上げた。“原爆の父”と言われた科学者の伝記映画『オッペンハイマー』(日本公開未定)が、本国で『バービー』と同時公開されたことから生まれたネットミーム“Barbenheimer(バーベンハイマー)”を巡る考察。先日の騒動が浮き彫りにしたものとは?


「被曝」をめぐる嘘

この8月7日に、78年前の広島、長崎への原爆投下に関する新たな情報が、ジャーナリストや研究者によって1985年に設立された民間研究機関「National Security Archives」によって報告された。それはマンハッタン計画を指揮したレズリー・グローヴズ将軍に関わるものだった。ニュースメディア「Slate」は、このレポートを、「マンハッタン計画に関する恐るべき新たな秘密が公表される」というタイトルで記事で、こう紹介している。

 第二次世界大戦中に原爆を製造したマンハッタン計画を率いたレスリー・グローヴズ将軍が、放射線の影響について議会と一般市民を欺いていたことが、新たに機密解除された文書によって明らかになった。当初は無知から、次いで拒絶から、そして最終的には故意に彼は欺いた。

 文書はまた、原爆が最初に実験されたロス・アラモス研究所所長J・ロバート・オッペンハイマーを含むプロジェクトの科学者の何人かが、グローヴス将軍に異議を唱えたり、直接対決したりするよりも、グローヴスの嘘について、口をつぐんでいたことを明かしている。


 この文書は、ジョージ・ワシントン大学の民間研究機関であるNational Security Archiveが長年にわたって入手した原爆に関するかつての秘密資料や極秘資料の最新版であり、広島と長崎への原爆投下から78年目の月曜日に、映画『オッペンハイマー』が、わずか3週間で5億ドルの興行収入を記録し、(それに値する)大成功を収めるなか公開された。


1945年、ニューメキシコ州アラモゴードで原子爆弾が爆発した鉄塔の跡を調査するオッペンハイマー(左)とレスリー・グローヴス(右)

レポートの焦点は「被曝」の被害に関する情報の隠蔽にある。原爆開発のために設立されたニューメキシコ州のロス・アラモス研究所に勤めていた4人の科学者によって1945年9月1日に提出された覚書は、原爆がもたらした大量の死の原因が、爆発の衝撃、熱風、放出されるガンマ線のほか、放射性の塵埃である可能性を伝えていた。

この覚書は、グローヴズ将軍が8月末に行った記者会見の内容への反駁として書かれたものだった。グローヴズはその記者会見で、当時日本で報じられていた放射線による被害はないと断定し、日本発の報道を「プロパガンダ」と一蹴した。この会見内容に不安を感じたロス・アラモスの研究者ジョージ・キシャカウスキーは、オッペンハイマー博士に以下の内容の手紙を送った

 広島と長崎で放射線による被害が続いているとの日本での報道に多くの注目が集まっています。グローヴズ将軍はこの件について情報を得るためにバチャーとヘンプルマンに問い合わせました。それを受けて、将軍宛に勧告が送られましたが、彼は私宛の電話で、その勧告を拒絶しました。私は心配になりヘンプルマンらに覚書の作成を依頼しました。その覚書をここに添付しますので、お好きに使ってください。私はこれを将軍に送るつもりでしたが、その前に将軍は公式声明を出してしまいました。彼が語った内容は確定事項ではなく、覚書の内容と照らしあわせるなら、グローヴズ将軍は明らかに暴走しています。彼は、この土曜日にシーマン大佐に電話し、トリニティ実験場に記者団を案内する許可を願い出ています。

トリニティ実験場とは、1945年7月に初の核実験が行われた場所だが、このタイミングで、グローヴズが記者団に対して実験場を公開することを求めたのは、原爆の安全性をアピールするためであっことは想像に難くない。

また、グローヴズは、同年11月に上院議会で開かれた原子力特別委員会でも嘘を語った。彼は放射線による被害は「ほとんどない」と語り、かりに死者がいたとしても「過度の苦痛を伴わない、安楽な死だった」と証言したとされる。Slateの記事は、グローヴズの嘘と隠蔽の動機をこう説明する。


 グローヴズが放射能の被害を過小評価し、軽視したのは、当時の多くの人たちと同様に、核兵器が米国の国防政策の中心になると考え(実際、その後数十年間はそうだった)、核兵器が毒ガスのようなもの、道徳的な閾値を超えたものと見なされれば、米国民は核兵器に反発するだろうと考えたからだった。


原爆投下から数カ月後の広島(「National Archives」WEBサイトより引用)


ポップアイコン化する原爆

グローヴズ将軍による意図的な隠蔽が功を奏したのか、戦勝に湧き立つアメリカ各地では「原子爆弾=アトミック・ボム」は、市井の人びとの心をざわめき立てる存在となっていた。ロサンゼルスの映画館に「アトミックダンサー」が登場し、ワシントン・プレス・クラブで「アトミック・カクテル」が発売されたのは、広島に原爆が投下された、わずか数日後だったと、「Atomic Heritage Foundation」のウェブ記事「アトミック・カルチャー」は書いている。ニューヨークのある宝石店では「原子力にインスパイアされたピンとイアリング」が発売され、そこにはこんな宣伝文句が踊っていたとされる。

「アトミック・ジュエリーが征服する新たな領土。真珠の爆弾が、人工のラインストーン、エメラルド、ルビー、サファイアとともにまばゆい色の猛威を炸裂する。 人類初の原子爆弾を投下した大胆さをもって、あなたはこの首飾りをまとう」




また、原爆をいち早く取り込んだ映画「Gメン対間諜」(The House on 92nd Street)は1945年9月に公開され、12月には、Karl and Hartyによって「原子爆弾が落ちたら」(When the Atom Bomb Fell)という歌がリリースされた。アメリカでは、原子爆弾は1945年の時点ですでにポップアイコンとなっていた。そして、その趨勢は、翌年になるとさらに加速する。

フランスの自動車エンジニアのルイ・レアールが「限りなく無に近い4つの三角形」で構成されたセンセーショナルな水着を発表したのは、1946年7月5日のことだった。「ビキニ」と名づけられた水着は、そのあられなさをもってローマ法王によって「罪」を宣告されるほど衝撃を与えたとされるが、これが発表されたのは、アメリカを中心とした日本、ドイツの戦艦を含む艦隊が、「クロスロード作戦」の名のもと、第1回目の核実験「エイブル」をマーシャル諸島のビキニ環礁で実施した4日後のことだった。


ルイ・レアールが発表した世界初のビキニ水着がお披露目される様子(1946年7月5日撮影)

瞬く間に世界を席巻した水着の名称のインスピレーションとなった核実験で用いられた爆弾には「ギルダ」という愛称がつけられていた。『ギルダ』は、黒のサテンドレスに身をまとった女優のリタ・ヘイワースの妖艶な姿が話題をさらい、ヘイワースの「ファムファタール」のイメージを決定づけた1946年の映画のタイトルと役名に由来する。

1946年7月1日、B-29から投下されたその爆弾の弾頭には、「Gilida」の文字とヘイワースの写真が描かれていた。当時ヘイワースと結婚していたオーソン・ウェルズは、彼女が自分の写真と役名が使われたことに激怒し、ワシントンで記者会見を開くことを主張したと回想している。その記者会見は、コロンビア・ピクチャーズの創業者ハリー・コーンに「愛国的ではない」という理由から反対され実現しなかったのだという。


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