「ボブ・ディランの上を行く」と言われた女性シンガーソングライター、才能と謎に満ちた生涯

コンヴァースの姿が目撃されたのは1974年8月、アナーバーが最後だった

1961年、ディランがニューヨークにやってきたのと同じ月に、失意のコンヴァースはニューヨークを後にした。彼女はミシガン州アナーバーに移り住み、10年ほど政治活動家・社会思想家として活躍した。大卒という肩書はなかったものの、コンヴァースは市民講座の講師を務め、有力学術誌「Journal of Conflict Resolution」で編集に携わり、「平和を求める女性ストライキ」「人種差別反対」などの組織でボランティアとして精力的に活動した。またベトナム戦争参戦に抗議を示す形で、全米初の「ティーチ・イン(学生と教員が討論する場)」の運営組織にも関わっていた。

彼女はミシガン州で数々のプロジェクトを同時並行で進めていた。そのひとつが、ニューヨークを離れる数カ月前にスタートした「1000のメロディを対象とした統計学」だった。曲がヒットする要因を科学的に解明しようという研究だったようだ。コンヴァースは手と耳、そして世に出たばかりのコンピュータを駆使して、半世紀後のプログラマーがPandraやSpotifyでやるような仕事を行った。「彼女は将来を予感していました」と、心理学教授のスーザン・A・ノーラン博士は語る。「タグづけをしていたんですから!」。

心身ともに病に悩まされていたコンヴァースは(「仕事に対する精神的エネルギーが衰えていった」と本人も書いている)Journal誌に6カ月間の無償休暇を申請した。同僚に宛てた手紙の中で、彼女は非凡な表現でこう書いている。「翌年には精神的の限界寸前で、声にならないヒステリックな叫びをあげる回数も増え、生理の周期は短く頻繁になっていった……睡眠をとることが多くなったのも原因だろう。生活の中で、寝ているときがもっとも耐えられる状態だからだ。だが、自分が書きたいことを筋道立てて考えてしまうのも一因だ……ずっと小説家のできそこないだったが、死ぬ前に世に出したいアイデアをもうひとつ温めている……」。

50歳を迎えようというころ、コンヴァースは人生を振り返り、終わりが差し迫っていると悟ったようだ。友人たちもそれに気づいていた。「最後の方は健康状態も悪化していました」と、ある友人も語っている。1974年8月、彼女は親しい家族や友人に謎めいた手書きの書簡を送った。どこか遠く離れた場所で人生をやり直すつもりだ、心配はいらない。

甥のピートは叔母を見送った時のことを覚えているそうだ。彼女はフォルクスワーゲンのビートル(すでにギターとわずかな所持品がいっぱいに積まれていた)に向かい、バッグを助手席に置くとエンジンをかけ、手を振りながら走り去っていった。それ以降、彼女も車も見つかっていない。

コンヴァースの弟フィリップはミシガン大学の高名な名誉教授だった。コンヴァースの生涯を調査し始めると、すぐに彼のメールアドレスが見つかったので、試しに連絡してみた。1時間もしないうちに返事が来た。ええ、私はコニー・コンヴァースの弟です。ええ、喜んでお話ししましょう。私にできることがあれば何なりと。こうしてやり取りが始まり、2014年にフィルが他界するまで、3年半友情が続いた。

姉があえて残していったものはすべて、ファイルキャビネットに収納しているとフィルは教えてくれた――1990年代初頭に引退するまで、彼自身も開ける気になれなかったそうだ。自宅を訪問すると、彼は私をガレージに連れていった。明かりをつけると、壁にもたれかかるようにして、引き出しが5つついた金属製のキャビネットがあった。古ぼけて薄汚れ、武骨で存在感がある。発見の瞬間をコミック風に表現するなら、聖杯や契約の書のようにキャビネットから波打つオーラが放たれていたことだろう。

そこには一握りどころか、何百という書類があった。1950年代に収録された作品もあったし、古いテープリールを収納した箱もあった。家族の歴史を口述したもの、クラシックコンサートのラジオ放送の録音、未公開に終わったオリジナルオペラの練習風景。

私が知る限りでは唯一の、タイプされた別れのメッセージがある。ファイルキャビネットに残されていた、ぺら1の定型文だ。用紙の上部には、「1974年8月10日――試し書きの1つ。ボツ。あくまで参考」と走り書きしてある。本文にはこう書かれていた。

「私が送ることになる別れの言葉のたたき台:私を行かせてください、なすがままにさせてください。私はもう何年もずっと、アナーバーの親類や友人に心配をかけてきました。金銭的援助だけでなく、精神的にも支えてもらいました。今のように落ち着いた状態の時には、賑やかな世界で新たな1歩を踏み出そうと何度も努力しました。でもできなかった。(中略)私は人類社会に魅了され、圧倒され、怒りと喜びを感じています。ただ、どうしても自分が落ち着ける場所が見つからない。だから行かせてください。これまで皆さん1人1人と過ごした幸せな時間に対する感謝を受け取ってください。分かってください、私もそれ以上の恩返しがしたかった――皆さんには感謝してもしきれません」

2011年、フィルの家でコンヴァースの失踪が始めて話題にのぼった時、私は失踪届けを出したかどうかフィルに尋ねた。彼いわく、姉を探す場合の手順を知っておこうと「行方不明者捜索人」と話したことがあったそうだ。フィルの話では、誰でも希望すれば姿を消す「法的権利」があると私立探偵から言われたそうだ――仮に探偵がコンヴァースを突き止めたとしても、本人が所在を知られたくなければ、探偵が居場所を明かすことは法律で禁じられているというのだ。

『How Sad, How Lovely』のプロデューサーのダン・ドスラもフィルから同じ話を聞いたそうだ。「少しおかしいなという印象を受けた」とドズラは言った。「だって、そうするのが探偵の仕事じゃないか?」。だがフィルにとってはそれで十分だった。彼はそれ以上深堀しなかった。そっとしておいてほしい、という姉の意向に背くことになると感じたのだ。

彼女の物語がその後も続いたと考えると、なんともそそられる。終止符が打たれてしまったと思うと、残念で仕方がない。今の段階で確実に言えるのはただひとつ、コンヴァースの姿が目撃されたのは1974年8月、アナーバーが最後だった。彼女が最後に打った大一番は、彼女の生きざまを物語っているといえよう。予測不能で必然的。曖昧かつ魅惑的。完全であると同時に未完。そして想像の域を超えている。

ハワード・フィッシュマン著『To Anyone Who Ever Asks: The Life, Music, and Mystery of Connie Converse』より引用。
出版:Dutton 印刷:Penguin Publishing Group、Penguin Random House部 著作権:ハワード・フィッシュマン、2023年。

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from Rolling Stone US

Akiko Kato

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