ヒップホップ・カルチャーを担う女性たち「Shiho Watanabe」

キーパーソンとの出会い

ーその後大学で東京に出てきて、最初はどうやって音楽業界に関わっていったんですか?

渡辺 当時『WOOFIN’』とかのクラブスナップを見て、一晩のうちに私が普段会いたいと思っていたラッパーやDJがみんな渋谷のクラブHarlemにいるわけですよ。これはもう行くしかないと。18歳で上京してから本当に毎日のように遊びにいって(笑)。最初は音楽業界の仕事ならばなんでもしたいと思っていたので、上京して3カ月くらいで初めてHarlemのイベントを手伝わせてもらいました。その後、サークルの先輩がヒップホップに特化したメディアの仕事をしていて、海外のニュースを毎日翻訳して書ける人を探していたからすぐに手を上げて書かせてもらったんです。それからはバイトで記事を書きつつ、イベントの手伝いもしつつ、自分でも渋谷のVUENOSなどでイベントを打っていました。

ー大学卒業後はどのような道に進んだのですか?

渡辺 就職活動の際、新卒でメジャーレーベルをほぼ全部受けたんですけど軒並み落ちて、メディアや流通系の会社に就職しました。就職してからはブログを開設して、一日3、4記事はアップしてましたね。それも、「『Amebreak』とか『bmr』の編集長に届け!」と、明確に思いながら書いていました。その間もずっと渋谷のクラブに通っていたので、徐々に現場で「ブログ見てるよ」と言ってくださる方が増えて。ブログを続けているうちに、少しずつファッション雑誌の小さいレビューや、海外記事の翻訳を数行書いてみないかとお仕事をいただけるようになって。その間に海外の音楽を扱うレーベルに転職したんですけど、ついにその頃ずっと本命だった『bmr』の編集長に私のブログが届いたんです。最初は来日アーティストの通訳として入る仕事だったんですけど、そのタイミングでレビューも書いてみないかとお声がけいただいて、そこから徐々にライターの仕事が増えていきました。それが多分25歳くらいのときで、その後、27歳のときにDJ YANATAKEさんに『INSIDE OUT』という新しいラジオ番組に誘っていただいて、さらにできることが増えた感じです。


初めて寄稿した時のbmr誌

ー今は喋りやイベントMCなどの仕事も多いと思いますが、そのラジオがきっかけだったのですか?

渡辺 ラジオを聴いて誘ってくださったのと、今に続く日本語ラップブームも追い風になりました。ここ数年でヒップホップを題材とした映画やドキュメンタリーが増えて、それを展開する際、それなりにヒップホップを知っていて、顔や名前を出して表に立てる人っていうときに、私に声がかかることが増えたんです。最初は私も顔を出したりすることが嫌だったんですけど、そこを乗り越えないと幅広い仕事をすることは難しいと思って、なんとか越えましたね。ただ、それなりにつらいこともあるので、これをみんなに強要したいわけではなく、人それぞれのやり方があると思います。

ー今の志保さんのキャリアにおいて、キーパーソンになった方はいらっしゃいますか?

渡辺 間違いなくDJ YANATAKEさんには数々のチャンスをもらったから、一生足を向けて眠ることができない存在ですね。『INSIDE OUT』もしかり、YANATAKEさんは間違いなく私にいろいろな「仕事」を与えてくれた方でした。もうひとりは、昔からお世話になっていて、人脈を大きく広げてくれた、今もレーベルでヒップホップ関係のA&Rをされている升本さん。あとは、私が上京してからずっとお世話になっている、元々DJ FUKUMUROとしてDJをしていた福室さんという方。私が10年くらい働いていたレーベルに入れてくれたのも彼で、上京してなにもわからなかったときにもイベントのスタッフとして引き入れてくれて、クラブを中心にした人間関係もすべて福室さんが教えてくれました。その3名に加え、中高校生の頃から記事を読んできた、堂本かおるさんや池城美菜子さんといった女性のライターの先輩方はキーパーソンになるかと思います。

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