狂気の神、フィル・ティペット監督が語る「創作論」

「常に自分自身を驚かせたい」

ーあなたは双極性障害などメンタル・ヘルス面の問題を抱えていることをオープンにしており、ストップモーション・アニメーションの作業が一種のセラピーであると語っています。あなたと同じ悩みを持っている人々に、ストップモーションをやってみることを勧めますか?

自分の経験から言うと、メンタル・ヘルスの専門家でない人間がそういう提案をすることは危険なんだ。個人差が大きいし、生命に関わることだってある。私の場合、効果があったというだけなんだ。だからアドバイスは私でなく、プロフェッショナルから受けて欲しいね。


『マッドゴッド』メイキング写真 ©2021 Tippett Studio

ーウィリス・H・オブライエンも『キング・コング』『コングの復讐』(共に1933年)製作の後に最初の奥さんと2人の子供を失うという悲劇に遭っていますが、彼にとってストップモーションは救済になったでしょうか?

それはウィリス本人にしか分からないことだけど、そうではなかったように思えるね。『キング・コング』での彼の功績は素晴らしいもので、私を含む多くのクリエイターの人生を変えてきたけど、その事件の後は予算や企画に恵まれず、キャリアを取り戻すことが出来なかった。『猿人ジョー・ヤング』(1949年)で再評価を得たけど、実際アニメーションにどれだけ関わっていたかは疑問がある。レイ・ハリーハウゼンとピート・ピータースンが実際の作業をやって、ウィリスはほとんど何もしなかったという説もあるんだ。ジョーが子供ゴリラの頃のシーンかな、マルセル・デルガドがいくつかのシーンを手がけたのは知っている。結局ウィリスは『キング・コング』がピークだった。とてつもなく高いピークだけどね。ただ、彼の功績は次世代のクリエイター達に受け継がれていった。レイ・ハリーハウゼンも彼からさまざまなことを学んだ。ストップモーションの技術はもちろん、彼を参考にして、効率化を図ったのもレイだった。レイはキャラクターの動きやアングルをより効果的にして、経費削減にも貢献したんだ。

ーウィリス・H・オブライエンやレイ・ハリーハウゼンが視覚効果を手がけた作品で、あなたが自分の技術を使ってリメイクしたいものはありますか?

いや、そういうのは元々興味がないんだ。デニス・ミューレンは『地球へ2千万マイル』(1957年)のイーマとドラゴンを戦わせたりするのが好きだけどね。そういうのはやりたくなかった。何かまったく異なったことをしたいんだ。誰に対するオマージュでもない、自分の世界観を描きたかった。常に自分自身を驚かせたいんだよ。

ー『ガンビー』(1955年〜)で知られるアート・クローキーもストップモーションの世界では大きな存在ですが、あなたも影響は受けましたか?

あまり影響は受けていないと思うけど、彼のスタジオの面接は受けたことがある。その頃はもう奥さんのルースがビジネスを仕切っていて、彼女と話したんだ。でも結局就職はしなかった。ベトナム戦争が始まって、大学に入れば徴兵されないということで、大学で芸術を学ぶことにした。いくつか転々としてカリフォルニア大学アーヴァイン校に落ち着いたんだ。この時期コンセプチュアル・アートが発展してきて、伝統的な美術でなくとも自分なりの表現を出来るようになった。だから最初から自分の作品を動かしたかったんだよ。誰か別のデザイナーが考えたキャラクターのアニメーションだけをやるつもりはなかった。でもアート・クローキーのスタジオにも優れた人材が大勢いた。リック・ベイカーと会ったのは、彼がクローキー・プロダクションズで働いていたときだったよ。

ーところで子供の頃にラクエル・ウェルチがベビーシッターだったという、世界中の男子の夢を実現させていたそうですが、そのことについて教えて下さい。

ラクエルは隣の家に住んでいたんだ。私は10歳ぐらいだったけど、年下のきょうだいがいたんで、彼女がベビーシッターに来てくれたよ。夜遅くなっても親が帰ってくるまでテレビでいろんなホラー映画や『ミステリー・ゾーン』を見させてくれたんで、感謝している。当時は痩せっぽちの十代の女の子だったけどその後、天気予報のお姉さんになって、それから女優として成功を収めたんだ。

ー『恐竜百万年』(1966年)を見たとき「あっ、ベビーシッターのお姉さんだ!」と驚きましたか?

いや、そう思った記憶はないな。何故だろう、ラクエルお姉さんが突然レイ・ハリーハウゼンの映画に出てきたら腰を抜かしていた筈なのにね(笑)。


フィル・ティペット

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