死と崩壊が支配するハリコフから逃れる、ひとりのアメリカ人ジャーナリスト

ジャーナリストとしての葛藤

私自身、こうした現場を訪れることは二度とないだろう。私はハリコフを去り、戻るつもりはない。そこでの危険と痛みは、あまりに凄まじいものだった。こうしたものに私の人生が支配されるのは、耐えられない。だが、ひとりのジャーナリストとして、始まったばかりの出来事を世に発信しつづけるという責務を放棄してしまった気もする。自らの意思でハリコフを去ることができる私は、この街がすべてである住民たちを見捨てたのだ。2日前に最初のクラスター爆弾が着弾した地区を車で走っていると、市民がスーパーの前で列をなしていた。私は、ドライバーのヴラドに住まいはどこかと尋ねた。「ここから、そう遠くはないです」と彼は答えた。戦争が始まる前、ヴラドはツアーガイドだった。

ドニプロで同僚たちを降ろしたあと、しばらくヴラドと連絡がとれなかった。頭の中では、彼が無事である可能性が高いことはわかっている。ひょっとしたら、携帯の通信が切断されているのかもしれないし、携帯の電源が切れているのかもしれない。だが、いまは戦時下で、死は至るところに存在する。私は、何度もメッセージを送った。ようやく返事が来た。ヴラドの母と姉妹は、西側に向かって出発したという。息子と彼は、ハリコフに残るそうだ。「どうか無事で」と彼に伝えた。この空虚な言葉は、立ち去るという選択をした私ひとりに向けられている。

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from Rolling Stone US


Translated by Shoko Natori

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