『ワンダーウーマン 1984』映画評:欲望と女嫌いと80年代ファッションに立ち向かうスーパーヒロイン

良質なスーパーヒーロー物の超英雄的資質を優れたものにしているのは、アクション映画ならではの手堅いおどけの要素だ。それは、実写化の重荷によって足を引っ張られることもない。同作は、すべての視線が自分に注がれていることをヒロインが自覚していて、劇中のバトルが何かを破壊したり、“男性”をボコボコにしたりするための計画あるいは言い訳ではなく、ガドットの正真正銘の映画スターとしての資質を誇示するためのチャンスのように思えてならない。こうしたものはすべて、前作のクライマックスの混乱によってなんとなく崩壊してしまった。それでも前作の地獄のようなバトルの第三幕は、ダイアナが初めてアイスクリームを食べる場面や、初めて男性を見かけるシーンほど記憶に残らない。ロマンチックな伏線をはじめ(ネタバレは控えます)、続編のストーリーはこうした要素の大半を取り除いてしまった。『ワンダーウーマン 1984』の特徴を挙げるとすれば、同作の中核にある諸刃の剣的な約束(ここでもネタバレは控えます)という、立ち向かうべき悪の本質に人々が気づく遅さだ。この点では、考えさせられる作品である。価値があるかはさておき、噛みしめるべきことはたくさんある。

ジェンキンス監督とガドットが思い描いたワンダーウーマンは、当然ながら、世界を救いたいと思っている。その一方、肩にのしかかる重荷に耐えるため、できる限り強くならなければいけない近年のバージョンの神のようなスーパーマンとは異なり、ワンダーウーマンは、そこまで力にこだわっていない。それは、いまは亡き英雄的パイロットのスティーブ・トレバーに恋をしたせいだ。私たちの世界の“リアルな”半神半人は、クラーク・ケントではなく、ダイアナ・プリンスである。だが、前作の可笑しくも皮肉な点は、ダイアナだってクラークと同じくらい異質な存在だということだ。というのも、不死身の彼女は、女性が支配する世界で育ったのだから。前作は、そこに起因するユーモラスなナイーブさを強調した。続編のダイアナは、執拗につきまとう同僚を手慣れた様子でぶっきらぼうにさらりとかわす。数年間で彼女はいろんなことを見てきたのだ——愛するスティーブの姿以外は。

ノスタルジックなコンテンツがあふれているいま、1980年代が舞台の映画はオーディエンスのために若干やりすぎるきらいがある。レトロな衣装による悪ふざけ、派手なニードルドロップ(訳注:映画のBGMに既存の楽曲を使用すること)、スピルバーグ監督をはじめ、当時を象徴するポップカルチャーに対する数多のオマージュ、X世代のポップ嗜好を浴びる喜びを感じさせることで観る人をハッピーな気分にしてくれる描写(あるいはあからさまな拝借)などがそうだ。『ワンダーウーマン 1984』は、衣装が誘う笑い(ダイアナは例外——どんな時代でもタイムレスなファッションをまとえるのは不死身の存在だけ)をいかんなく見せつけ、お決まりのギャグも巧みに盛り込まれている。

Translated by Shoko Natori

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE