MONO NO AWAREの曲作りのポイント、「何かと何かがつながる瞬間の喜び」を玉置周啓が語る

自分らだけでやっていると客観性に欠けるというか、裸の王様になりかねない

─昨年、ドキュメンタリー映画『沈没家族 劇場版』でも主題歌「A.I.A.O.U」を書き下ろしされていました。その時とは作り方も違いましたか?

玉置:全く違いました。特に、フィクションとノンフィクションの違いは大きいですね。『沈没家族』はノンフィクションで、しかも監督の加納土は島の後輩。大体どんな奴かも分かっていたので、彼のことを考えながら作った曲を聴かせたら即OK、あとは好きにやってほしいという感じだったのですが、今回は監督さんも原作者さんもいて、その方たちのイメージがはっきりしていたので、漫画を読んで作ったデモは相当自信があったんですけど、イメージと違ったようで。

─おお、そうなんですね。

玉置:「もうちょっと元気な感じで」と言われたのですが、難しかったですね。最終的に、18歳の時に作ったデモを引っ張り出してきて。今の自分たちでは書けないくらい、元気がほとばしっている曲を「こういうことかな?」と思って候補曲の中に入れて送ったところ、「これです!」って採用になった。そうか、ここまで元気な曲を求められていたのか……って(笑)。僕自身、劇場映画を作ったことなどないから、制作サイドがどういうビジョンを抱いているのかも分からなかったんですよ。なので、曲を作っている間は正直ずっと不安でした。

─確かに、そうですよね。

玉置:でも試写を観に行ったとき、エンドロールで「ゾッコン」が流れたらめちゃくちゃハマってて。「あ、こういうことだったのか」と思いましたね。自分以外の人が思い描いているビジョンに、自分の曲がハマる瞬間を観るのは、なんだかイリュージョンっぽくて不思議な感じもしました。今までにない経験でとても刺激的だったな。

ちなみに当時のデモは「自分たちがやる意味はあるのか」というくらい、今の自分たちの曲とはかけ離れていたのでアレンジも必要でした。そこはかなり工夫しましたね。

─きっと、普段の曲作りともまた全然違いますよね?

玉置:バンドの場合は何でも正解になるわけじゃないですか。自分たちだけでやっているから。でも映画はある意味、普段違う領域にいる人たちが「正解・不正解」を決めるところに面白さを感じました。

─映画の世界観を、この曲の歌詞にどう落とし込んでいったのですか?

玉置:それが、歌詞については「映画に寄り添わなくてもいいので」って言われてたんですよ。なので、歌詞は18歳の時に書いたものをそのまま使っているんですけど、映画が終わって最後にあの曲が流れると、不思議とリンクしているというか。ストーリーに寄り添わなくても、登場人物たちのバックグラウンドとリンクしているような感じになっていたのも面白かったですね。

先日、映画のオフィシャルインタビューを受けたのですが、インタビュアーの方には「知花実央(登場人物の一人)のキャラを彷彿とさせる」と言われました。「相手に想いをストレートに伝える姿が彼のようだ」と。個人的には、いろいろ考えてしまって気持ちを伝えられない橋本駿に近いなと思ったんですけどね。人によって感じ方が違うのは、映画に寄り添ってない歌詞だったからこそなのかもしれないなと。

─「映画」というフィルターを通しつつ、ある意味では制限が多い中での曲作りだったと思うのですが、その経験によって今まで開いていなかった新たな引き出しが、玉置さんの脳内で開く感覚はありました?

玉置:ありました。自分らだけでやっていると客観性に欠けるというか、裸の王様になりかねない。そのことはバンドを続けながらずっと心配していたんですよね。このまま続けていっても果たして面白いのだろうか?と。

それこそ友人であるTempalayの(小原)綾斗にもよく相談していたんですけど、綾斗が直接制作に関わってくれるわけでもないし、励ましてはくれるけど自分たちでなんとかしなきゃならない。そんな時に映画の主題歌をやらせてもらって、「この曲はいいけど、映画には合わないです」みたいなことをバシッと言ってもらったことで、かえって出来ることが増えた気がしますね。自分たちだけではたどり着かなかったところまで行けたと思います。

Tag:

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE