ローリング・ストーンズを支えた名プロデューサーの知られざる15の真実

1969年ロサンゼルス、キース・リチャーズとミック・ジャガーとプロデューサーのジミー・ミラー(Photo by Robert Altman/Michael Ochs Archives/Getty Images)


10. ジャーナリストのジュディス・ミラーは、ジミー・ミラーの腹違いの妹である

元ニューヨーク・タイムズの論説委員のジュディス・ミラーは、ジョージ・W・ブッシュ政権下におけるプレイム事件の報道において中心的役割を果たし、情報源公開の要請に応じなかったとして収監されたことは広く知られている。そんな彼女はLondon School of Economics(ミック・ジャガーの出身校でもある)での学生時代に、ストーンズのレコーディング現場を度々訪れていた。著書『The Story: A Reporter’s Journey』で、彼女はこう綴っている。「大学の授業にまるで興味を持てなかった私は、よくジミーの仕事を見学しに行くようになった。大抵の場合、セッションは真夜中から明け方にかけて行われていた」

11. ほとんど関与していない作品にも、ミラーはプロデューサーとしてクレジットされていた

ミラーは『スティッキー・フィンガーズ』にプロデューサーとしてクレジットされているが、彼は『ブラウン・シュガー』『ワイルド・ホース』『ユー・ガッタ・ムーヴ』には関与していない。その3曲は1969年12月に、バンドが全米ツアーの合間に訪れたアラバマ州シェフィールドのマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオでレコーディングされている。そのセッションで事実上のプロデューサーとなったのは、ギタリスト兼エンジニアを務めたジミー・ジョンソンだった。チャーリー・ワッツは『アコーディング・トゥ・ザ・ローリング・ストーンズ』で、アラバマでのトラックダウンは満足のいくものだったと述べている。「俺たちはジミー・ミラーの手腕に頼ることなく、あの3曲を完成させたんだ」

12. ミラーはザ・ナックの前身バンドを発掘した

ミラーはデトロイトのティーンエイジャーたちによるバンド、スカイを発掘しプロデュースした。そのバンドのヴォーカリストは、後にザ・ナックのフロントマンとなるダグ・フィーガーだった。トラフィックでフルートとサックスを担当していたクリス・ウッドは、ある公演でバンドの前座を務めたスカイに興味を持ち、当時10代だったフィーガーにジミー・ミラーの連絡先を伝えた。トッド・ロングウェルとのインタビューで、フィーガーはこう語っている。「ある日の夜、家で家族と一緒にテレビを見ていたら、親父がこう言ったんだ。『ジミー・ミラーって人からお前に電話だ』どうせバンドのメンバーのジョンのいたずらだろうと思って『はいはい』って電話に出たら、相手は本物のジミー・ミラーだったんだ! 彼はこう言った。『モータウン・スタジオに用があってデトロイトに行くんだが、君のバンドを観てみたいと思ってね』僕らは空港まで彼を迎えに行き、モータウン・スタジオに連れて行った後、彼と一緒に我が家に帰ってきた。地下室の卓球台を囲む形で座った僕らは、彼の前でオリジナル曲を全部披露した。その翌日、彼は僕らと契約したいと申し出てくれたんだ。僕が高校を卒業した1週間後、彼は僕らをロンドンに呼び寄せてくれた。僕らがAスタジオにいた時、隣のBスタジオではストーンズが『スティッキー・フィンガーズ』を録ってた。当時僕はまだ17歳で、まるで夢を見ているような気分だったよ」

13. ミラーとストーンズのタッグによる最後のアルバムは『山羊の頭のスープ』だった

『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』がストーンズの黄金期の幕開けを告げたとすれば、『山羊の頭のスープ』はその終焉を示唆していたと言える。同作はミラーがプロデュースを手がけた最後のストーンズの作品でもある。決して駄作ではないものの、ロックの歴史に名を刻んだ過去4作に比べれば、同作が見劣りすることは紛れもない事実だった。キース・リチャーズは『ライフ』でこう綴っている。「俺たちと多くの時間を共にする中で、ジミー・ミラーの体はクスリに蝕まれていった。ミキシングボードに鉤十字のシンボルを刻むほど精神的に追い詰められていた彼が、俺たちのために残してくれたスワンソング、それが『山羊の頭のスープ』だった」以降ミラーはその生涯を終えるまで、ドラッグとアルコールへの依存と格闘し続けることになる。

14. 後年、ミラーはモーターヘッドの第4のメンバーとなった

薬物依存の克服と再発を繰り返していたミラーだが、70年代後半には自らを奮い立たせ、モーターヘッドの代表作『オーヴァーキル』をプロデュースしている。しかし続く『ボマー』の制作時には、ミラーは再びドラッグの誘惑に飲み込まれてしまう。モーターヘッドのフロントマンだったレミーは、Metal Hammer誌のマルコム・ドームとのインタビューで、候補としてリストアップされていた4人のプロデューサーの中からミラーを選んだ理由として、彼が手がけたストーンズの作品を挙げている。彼はミラーについてこう語っている。「彼の功績は計り知れない。スタジオについての知識が皆無だった俺たちとは対照的に、彼はその使い方を熟知していた。アルバムの制作過程において、実質上彼はモーターヘッドの第4のメンバーだった」

15. 晩年のミラーはプライマル・スクリームの出世作『スクリーマデリカ』で、ストーンズにインスパイアされたシングル『ムーヴィン・オン・アップ』を含む2曲をプロデュースしている

グランジブームがアメリカを席巻していた1991年、プライマル・スクリームのサードアルバム『スクリーマデリカ』のオープニング曲であり、ミラーとストーンズの蜜月時代を彷彿とさせる『ムーヴィン・オン・アップ』は、米モダンロックチャート2位を記録し、バンドにとって初のアメリカでのヒット曲となった。バンドのフロントマンであるボビー・ギレスピーは、ミラーについてこう語っている。「抜群のリズム感を持った、まさにグルーヴの魔術師だった。『ムーヴィン・オン・アップ』で鳴ってる風変わりなパーカッションは、ジミーが2本のコーラのボトルを叩いている音なんだよ」

Translated by Masaaki Yoshida

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