男社会の音楽ジャーナリズムを解体せよ 差別と闘い続ける女性たちの提言

音楽ジャーナリストを志した背景

ダフネ・ブルックス(以下、ブルックス):私の両親は、公民権を教えていました。ジム・クロウ法(訳注:1870年代から1964年の公民権法制定まで続いた、米南部における人種隔離政策)が施行された南部を1950年に逃れ、サンフランシスコ・ベイエリアに移住したのです。家では、両親の好きなビッグバンドやビバップ、兄がハマっていたテンプテーションズの楽曲、姉が観ていた『アメリカン・バンドスタンド』や『ソウル・トレイン』といった音楽番組を通じて、こうした音楽に触れていました。でも、人種差別のない学校に通いはじめると、パンク・ロックやニュー・ウェーヴといった音楽を聴くようになりました。私は、ポリスやクラッシュに夢中でしたが、家では誰もそれについて触れたがりませんでした。

タワーレコードに通うようになると、RS誌やヒット・パレード、クリームといった音楽雑誌が気になりはじめました。そのなかでも、RS誌が大好きでした。何よりもまず、取り扱われる題材に惹かれました。RS誌は、アーティストが自分の音楽を通じて何を伝えたいのかを解明しようとしていましたから。私は、ポリスのサウンドには、ボブ・マーリーに通じるものがあると感じていました。曲と曲とのつながりに気づき、その曲のすべてを理解したいと思いました。その結果、ロック音楽ジャーナリズムに興味を持つようになりました。やがてそれは、アフリカ系アメリカ文学に対する愛情と一体になっていったのです。この業界で働きたいと思うようになりました。業界の動向を必死に追いながらも、有色人種の女性が活躍していないことが残念でなりませんでした。

カンディア・クレイジー・ホース(以下、クレイジー・ホース):昔からロックを扱う音楽評論家になりたいと思っていたわけではありません。1970年代、私がまだ子どもだった頃は、レコードのプロデューサーに憧れていました。ライナーノーツがきっかけで、レコードづくりに魅了されたのです。レコードショップに行っては、店員たち——もちろん、男性です——と話をしました。それに、私のように音楽にのめり込んでいる女性は、周りにいませんでした。音楽は、私ひとりの空間だったのです。

90年代には、アートスクールに通うため、アフリカのガーナからニューヨーク・シティに移住しました。その後、国連で仕事を見つけました。90年代後半には、ヴィレッジ・ヴォイスというニュース/カルチャー紙のインターンシップに応募し、無事採用されました。これを機に、キャリアの道が開けていきました。


カンディア・クレイジー・ホース(Photo by CAMARA DIA HOLLOWAY)

ヤーン・ユヘルスキ(以下、ユヘルスキ):私は、音楽を聴いて、その意味を理解することができます。ミュージシャンたちが何を伝えようとしているのかも理解できますし、私たちが知らない何かを知っていることにも気づいていました。でも、ロックをやったり、曲を書きたいと思ったことはありませんでした。

ブリタニー・スパノス(以下、スパノス):12歳の頃から、私の夢はただひとつ——音楽ジャーナリストになることでした。そんな私にとっての初めてのフルタイムの仕事がヴィレッジ・ヴォイス紙でした。最初はインターンでしたが、音楽欄のアシスタントエディターに昇格しました。それと並行して、ジェシカ・ホッパーの紹介で『ルーキー』という雑誌にもフリーのジャーナリストとして寄稿しはじめました。ジェシカはスピン誌やヴァルチャー誌ともつないでくれました。2014年の夏から、フリーでRS誌にも寄稿するようになりました。

ブルックス:英文学の博士号を取得するためにUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に通っていた当時」、私は同じ大学院に通っていた親友と数えきれないほどイベントめぐりをしていました。90年代半ばといえば、ライオット・ガールはもちろん、オルタナティブ・ヒップホップの全盛期でもありました。親友と私は、文芸批評と文化批判を勉強していました。そこで、助成金に応募して、会議を開こうと考えたのです。ひとりのファンとして、私たちは「ポピュラー音楽カルチャーとポピュラー音楽ライティングに関する会議を開催しよう」と期待を膨らませていました。こうして誕生したのが、ポップ・コンです。

クレイジー・ホース:確かに、『Rip It Up: The Black Experience in Rock ’n’ Roll』はターニングポイントでした。それまで、黒人のロックを掘り下げた書籍は存在しませんでしたから。それに、ヴィヴィアン・ゴールドマンやエイミー・リンデンといったジャーナリストと仕事ができて、とても光栄でした。

ユヘルスキ:デトロイトのグランデ・ボールルーム(訳注:同地の歴史的なライブ会場)でコカ・コーラ・ガールの仕事をしていたとき、クリーム誌を売っていた人たちに「記事を書かせてくれたら、コーラとポテトチップスとタバコをおごってあげる」と言ってまとわりついていました。クリーム誌で働けるなら、なんでもする覚悟でした。編集者に手紙も書きました。頼まれもしないのに記事を書いては、編集部に送りつけていました。私は、このために生まれてきた。これが私の天職だとわかっていましたから。ティーンエイジャーのコラムニストとして、デトロイト・フリー・プレス紙に寄稿していたロレーヌ・アルターマンという女の子がいたんです。私は、その娘に憧れていました。


ブリタニー・スパノス(Photo by GRIFFIN LOTZ FOR ROLLING STONE)

スパノス:RS誌のジャーナリストとして初めてインタビューをしたアーティストの多くはその後ブレイクし、数年後に特集が組まれました。2016年にデュア・リパのRS誌初インタビューを担当したのも私でした。デビューアルバムがリリースされる1年前のことです。BLACKPINK、リゾ、ショーン・メンデス、ホールジーも、初インタビュー後にブレイクしましたね。

2017年に、初めてカバーストーリーを任されました。アーティストはカーディ・Bです。私は25歳で、ちょっとしたアクシデントがきっかけでした。私は、カーディ・Bがアトランティック・レコードと契約を結ぶ前に、彼女の記事を書いたことがありました。カーディ・BのInstagram投稿がとても面白い、と評判だったので。小さな記事でしたが、公開されたのと同じタイミングで、彼女のメジャーデビューシングル「Bodak Yellow」が音楽チャートで1位を獲得したんです。表紙のアーティストはすでに決まっていたのですが、その人を押しのけて、カーディ・Bが抜擢されました。別の担当者に仕事を取られてしまうのでは、と不安でしたが、ありがたいことに、担当させてもらえました。

Translated by Shoko Natori

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE