ザ・ローリング・ストーンズが語る、新作『Hackney Diamonds』知られざる制作秘話

 
チャーリー・ワッツの不在、若きプロデューサーの貢献

ローリング・ストーンズにとって、ロックンロール史上最高のドラマーの1人に数えられるチャーリー・ワッツ抜きでの活動は、決して簡単ではなかった。「全てはチャーリー・ワッツへのトリビュートだ。いつものミスター・ワッツのバックビートが聴こえてこないと、俺は何も弾けない」とキースは言う。ニューアルバムにおけるチャーリーの存在は、バンドにとって特別なものだった。「チャーリー・ワッツさえいてくれたら……それだけが残念でならない」とキースは吐き捨てるように言った。ただ、チャーリーが生前キースへ紹介したスティーヴとのコンビネーションも、悪くはなかった。「スティーヴがドラムを叩くと、文字通りステージが動くんだ」と、バルセロナから電話インタビューに応じたギタリストのロン・ウッドは言う。「彼のドラムは、大地を揺るがすのさ」。

2022年、まだバンドがデッドラインを決定する前の時期に、グリマー・ツインズ(ミックとキース2人の呼称)は、スティーヴ・ジョーダンとピアニストのマット・クリフォードを伴ってジャマイカに滞在し、新曲の制作に取り掛かった。ツアーで既にスティーヴのドラム・スタイルに慣れていたミックは、曲作りにおけるコラボレーションもスムーズだった。「俺はグルーヴ指向の人間だから、まずはグルーヴから曲作りに入っていく」とミックは言う。「バンドだから、全部を一人で決めるわけにはいかないが、自分の目指すグルーヴは理解しているつもりだ」。

ジャマイカでのセッション中に、スティーヴのドラムビートに合わせてミックが歌い、「Angry」の原型が出来上がった。「ちょうど良いテンポを求めて、歌詞を口ずさんだりするんだ」とミックは言う。「どこにアクセントを置こうかとか、コーラスはヴァース部分と少し印象を変えてみようとか、ノリが良くテンポがしっくり来るまで何度も歌詞を口ずさみながら繰り返すのさ」というのが、ミック流の曲作りのプロセスだ。ミックとスティーヴは、ロンドンの「寂れた通り」からの脱却を歌ったノリの良い曲「Whole Wide World」や、ミックが自宅のピアノで作った賑やかなゴスペル曲「Sweet Sounds of Heaven」にも、同様のメソッドを採り入れた。

「俺は言葉を詰め込みすぎる傾向にあるから、後で音節を削っていくのさ」とミックは明かす。「ずっとボーカルばかり聴こえていても良くないだろう。余白部分も重要だ。経験から学んだのさ」。

90年代初頭からバンドが頼りにしてきたプロデューサーのドン・ウォズは、スケジュールが合わなかった。「全体的に自分たちの手に負えなくなってきたんで、“俺たちにはレフェリーのように仕切ってくれる人間が必要じゃないか”と考えた」とロン・ウッドは振り返る。「ポール・マッカートニーとディナーしている時に、レコーディングはどんな具合かと聞かれたんで、誰か仕切り屋を探していると言ったのさ。するとポールから“アンドリュー・ワットというニューヨークの若い奴に一度やらせてみないか”と提案されたんだ」。

ところがロンの知らない間に、ミックが既にアンドリューと連絡を取っていた。グラミー賞受賞歴もあるアンドリューは、マイリー・サイラスからオジー・オズボーンまで、幅広いジャンルを手掛けるプロデューサーだ。数年前にストーンズが何枚かのシングルをリミックスしていた時期に、ドン・ウォズがアンドリューをバンドに紹介した。2022年6月にバンドがロンドンのハイドパークでのコンサートを終えた頃、ミックは、アンドリューにニューアルバムのプロデュースに興味があるか打診した。ストーンズ・ファンでもあった32歳のアンドリューは、歓喜のあまり「そんなの答えを聞くまでもないでしょう」と思わず口走ったという。

一方のミックは「アンディー(アンドリュー・ワット)は、とてもやる気がありそうな奴だった」と、冷静に見ていた。


Sixtyツアーのステージに立つ(左から)ロン・ウッド、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、スティーヴ・ジョーダン(2022年、ベルリンにて撮影。Photo by SOEREN STACHE/PICTURE ALLIANCE/GETTY IMAGES)

間もなくバンドはニューヨークにあるエレクトリック・レディ・スタジオに集結し、アンドリューも加わった。「いいかい、僕は彼らの大ファンなんだよ。僕がローリング・ストーンズのコンサートを何回観たか彼らに明かしたら、きっと気味悪がって二度と口をきいてくれないかもしれない」とアンドリューは語る。彼は「あなた方は、客席からバンドを見ていた熱狂的なファンにプロデュースを任せているのだ」とアピールするため、毎日違うストーンズTシャツを着てスタジオへ通ったという。アンドリューをプロデューサーに迎えたバンドは、ニューヨークをはじめ、ロンドン、パリ、ロサンゼルスなどで数カ月に渡りレコーディングを続けた。そうしてバンドは、自ら設定したデッドラインを守った。

アンドリューはまず、100曲分を超えるデモ素材を整理するところから始めた。「新たに加わったアンドリューは、バンドを取り仕切りながら、たくさんあるカードの中からロイヤル・ストレート・フラッシュになる組み合わせを選び出した。彼が選んだカードは最高だった」とロンは絶賛する。

「俺たちも以前は、そうやって曲を仕上げていた」とミックは言う。「いくつかの曲を選んでリハーサルを繰り返しながら、どんどん肉付けしていく。そうして20曲ほどの曲を仕上げて、スタジオでオーバーダビングしながら、優先順位を付けていくのさ」。

「ツアーのためにスタジオを離れたのは数週間かそこらで、あとはスタジオで一緒に作業を続けた」とキースは振り返る。

オーバーダビングのためのスタジオ・セッションを長時間続けた後で、息抜きに夜の街へ出ることもあった。そんな時でもキースはすぐにスタジオへ戻ると言い、ミックも続いた、とアンドリューは証言する。「キースはハードワーカーだった」とミックは言う。「彼は何日も休まず働き続けた。それから俺がボーカルの一部をレコーディングして、ロニーも自分のパートを入れた。それから俺は2023年の1月にバハマのナッソーへ行って、ボーカル・パートを仕上げた」。

Translated by Smokva Tokyo

 
 
 
 

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