アンディ・テイラーが語るデュラン・デュラン復帰の可能性、がん闘病からのカムバック

 
デュラン・デュラン結成〜脱退までを振り返る

―デュラン・デュランの歴史について教えてください。1981年11月11日にスウェーデンのテレビ番組『Måndagsbörsen』で放映された、「Planet Earth」のライブビデオを観ました。バンドの初期からデュラン・デュラン・サウンドが確立されていたことに驚きます。最初から完成されたバンドのように感じました。

アンディ:バーミンガムでバンドのメンバーに会ったのは1980年4月で、シンガーは不在だった。彼らからは、シンガーは休暇中だと言われた。当時からジョン・テイラー(Ba)とロジャー・テイラー(Dr)のグルーヴは最高で、曲のアイディアもあった。彼らの演奏もクールだった。結局俺は、彼らと数週間一緒に過ごした。それから6週間後ぐらいに、サイモン(・ル・ボン)が合流した。最初のギグは、同じ年の7月19日だった。その時点で、1stアルバムに収録する曲のほとんどが完成していた。

―素晴らしいですね。

アンディ:「Girls on Film」だけは違った。この曲に関しては、たくさんのバージョンを試していた。その時点で「Planet Earth」が完成していたかどうかは覚えていないが、サウンドだけは出来上がっていた。その年の秋に俺たちはラッキーなことに、ヘイゼル・オコナーのオープニングアクトを務めた。その頃には1stアルバム向けの曲が書き上がり、デモ曲も準備できていた。最初のギグから1stシングルのリリースまで、6カ月だった。




―当時のビデオを観ると、70年代が終わり、80年代の到来が感じられます。

アンディ:時代の区切りがあんなにもはっきりとしていたなんて、驚きだ。今のカルチャー的には、それほど明確ではないかもしれない。パンクが流行した当時は13歳か14歳で、まだ若すぎた。俺たちの時代は一種のグラム・パンクが主流だった。それからバンドの他のメンバーは、シックに夢中だった。俺は、デュラン・デュランへ加入する前に米軍基地で演奏していたことがあり、その時期にシックの曲を覚えた。45分間のセットを1日6回もこなさなければならないから、あらゆるジャンルの曲を覚えたよ。

カバー曲を演奏していたが、決してごまかしは効かなかった。そこであらゆる演奏スタイルを身につけたおかげで、デュラン・デュランで求められるさまざまなギター・スタイルにも貢献できた。他のバンドがギター中心から、LinnDrumや8o8といったリズムマシンを使ったシンセ音楽へと移行する中で、俺たちはギターも残したハイブリッドを貫いた。

アンガス(・ヤング)やエディ(・ヴァン・ヘイレン)が、ギターソロを含む全てのパートをギターで書いていたのとは違う。時には2台のギターを重ねて、1台に聴こえるようにミックスしたりした。(ジミ・)ヘンドリックスが、3台のギターをまるで1台のように重ねていた手法からヒントを得たんだ。「Planet Earth」のコーラス部分では、ファンキーなギターにヘヴィなギターサウンドを重ねている。俺はギターシンセも使った。ニック(・ローズ)が、新しいキーボードの機種が出ると、すぐに手に入れていたからね。俺たちは1980年12月までに「Planet Earth」のレコーディングを終えていた。

―注目すべきは、デュラン・デュランが全米ツアーに力を入れて、北米でのブレイクにつなげた点です。他のライバル・バンドの多くには見られない動きでした。

アンディ:北米で売れるのが最もハードルが高いことがわかっていたからね。俺たちは「マディソン・スクエア・ガーデンを目指そう」と誓い合っていた。その目標があったからこそ、あらゆる面で全く違う志向を持ったメンバーが結束できたのだと思う。ひとりひとりの個性は全く異なっても、俺たちは大きな希望を抱いていた。俺たちより10年も前に、エルトン・ジョンやクイーンが60年代から70年代にかけて敷いてくれた道筋だ。



―1983年のアルバム『Rio』がバンドの絶頂期だったと思います。今のあなたから、自分を含む当時のメンバーにアドバイスするとしたら、何と声をかけますか?

アンディ:バンドを結成した当時は全員がとても若く、失敗から学んでいった。俺たちには大きな望みはあったが、経験が乏しかった。あの当時に、アドバイスをくれる人間が周りにもっといたらよかった。「君らが今どれだけのコカインをやっているか、冷静に判断できる状況になれたら、どんなにいいかわかるかい?」と言ってくれる人間が必要だった。

ドラッグが原因で苦しむバンドは、非常に多かった。俺たちの5人全員がドラッグにはまっていたとは言わないが、人生経験を積んだ兄のように俺たちを諭してくれる人間が周りにいなかった。『Rio』がリリースされた時の俺たちは、25歳にも満たない若造だった。

「まずは立ち止まって、1年間休みを取るべきだ」とアドバイスしてくれる人が、俺たちの近くにいなかった。俺たちは1984年までの4年間で、デュラン・デュランのアルバム3枚、パワー・ステーションのアルバム1枚、アーケイディアのアルバム1枚と、ライブ・アルバム1枚の計6枚のプラチナ・アルバムをリリースした。ところが、将来を考えて俺たちに休むよう勧める者などいなかったのさ。

ロジャーは調子を崩し、ジョンと俺は、パワー・ステーションのプロジェクトで疲れ切っていた。我々の周囲の年長者は、父親ですら「ちょっと休んだ方がいい」とは言わなかった。誰も金づるを手放したくなかったんだ。

―あなたは1986年にバンドを離れました。『The Wedding Album』など、あなたが脱退した後のデュラン・デュランの作品を聴いたことはありますか?

アンディ:『The Wedding Album』を作る前に、サイモンと会って一緒に飲み食いした。俺たちは同じサウス・ロンドンの近所に住んでいたからな。彼が俺を送ってくれる車の中で、「Ordinary World」と「Come Undone」のデモ・カセットを聴かせてくれた。彼は感想を聞かせてくれと言ったが、俺はただ驚いた。俺と一緒にやっていた頃の素晴らしいメロディーそのままだったからだ。サイモンが、俺の後任として加入したウォーレン(・ククルロ)と一緒に作り上げたメロディー構造だ。「Ordinary World」を聴いた時は「これこそ完全にサイモンらしい音楽だ!」と感じた。

それから俺はパワー・ステーションの第2期目に入ったが、失敗に終わった。でもデュラン・デュランの2010年の楽曲「All You Need Is Now」は、とてもいい曲だと思う。俺が最後に聴いたデュラン・デュランのアルバムは『All You Need Is Now』だった。




―ファンの多くは、2000年代にあなたが再びバンドを離れたことでお蔵入りになったアルバム『Reportage』のリリースを熱望しています。バンドは『Reportage』を破棄して、『Red Carpet Massacre』を新たに作り直しました。『Reportage』を完成させる予定はあるでしょうか?

アンディ:わからない。どうすれば完成させられるのか。今のデュラン・デュランのやり方ではだめだ。当時の方式でないとな。きっと俺よりも、彼らの方が昔のやり方に合わせるのが難しいだろう。俺はロバート・パーマー、ザ・ティン・ティンズ、リーフ(Reef)など、さまざまなアーティストと一緒にやってきた実績がある。長年の経験から、その場の環境やギグの内容にすぐ適応できる能力が身に付いているのさ。

俺にとっては、「自分の役割は明確だ。俺はすぐに以前と同じように演奏できる」と言える状況の方が楽かもしれない。でも周りの人間は、そうやって以前と全く同じ形に戻れるだろうか? サッカーチームのように、以前のフォーメーションへ戻せば、お互いの対話と理解を深められるだろうか? 音楽の場合は、そうはいかない。各メンバーが納得して、他のことを忘れて集中できる場所へ立ち返った上で、集合できるかどうかにかかっている。


Translated by Smokva Tokyo

 
 
 
 

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