「ロックと女性の物語」ベストセラー小説『デイジー・ジョーンズ』はどう生まれた?

オーラルヒストリーを選んだ背景

―個人的にすごく魅了されたのは、あなたが小説をオーラルヒストリーのスタイルで描くという、いわば荊の道を選択されたことです。実際にすべてのインタビューをやり、その素材を適した場所に配して編纂していくという作業は、本当に手間がかかります。あえてそういう形式を選んだのはどうしてでしょう。どのようにして全体を構築されたのか。そして、そういう荒行を御自身に課したのは何故だったんですか?

リード:(笑)ええと、すごくいい質問だわ。ああいう形にしたのは、音楽を扱う本を書こうとしてみて、音を描写するということが信じられないくらい難しいと気づいたからよ。何かを読むことと、そこに書いてあるものを聴いてみたくてたまらなくなるといったことの関係についてもじっくり考えてみました。

もし実在の人物を扱った伝記であれば、コンピューターの前に座り、見つかってきた70年代の音楽に耳を傾けることもすぐにできる。誰でもやったことがあるんじゃないかしら。でもフィクションの場合にはそうはいかない。だって全部、私がでっちあげたものなんですから。

それでも私は、この本をできるだけリアルにしたかった。作品の世界にどっぷり浸かって欲しかったの。ただフィクションを読んでいるのではなく、まさにその場に立ち会っているような手応えにしたかった。そのためには、それも、ロックにまつわる物語を語るのであれば、一番相応しい手法は、そのジャンルのドキュメンタリーに近づけることだろうと考えました。

―ご自身はドキュメンタリー浸けみたいになったりされたんですか?

リード:それ、いいかもですね。一番参考にさせてもらったのは『駆け足の人生~ヒストリー・オブ・イーグルス』です。女性っていろんな場所で、口さがなくて、ちょっと意地悪く描かれがちだと思いません? 実に興味深いわ。でも実際、過去そういう人たちもきっと少なからずいたんでしょうね。私は「女にはできないことがある」とか言いたいつもりは毛頭ないですよ。むしろ女性には何でもできると思ってます。でも、こと音楽のジャンルにおいては、そういう存在がある種の典型で、私はそれはまったく間違っているな、とずっと思っていたんです。

あと『駆け足の人生〜』を観ていると、陰で相手のことをクソミソに言い合っている関係性というのがかなり出てきますよね。あれがいいんです。口さがなくて涎出そう、みたいな感じになります。互いに気に食わないことを抱えている。あの張り詰め具合こそバンドですよ。

でも、バンドを扱った映像作品では大抵、その辺まではなかなか見えてこないようになっています。少なくとも私の知る限りはそうでした。だけど緊張感って絶対ありますよ。必ずしも必要という訳でもないのかもしれないけれど。狭量さも同じですね。「そりゃあ確かにもう30年も前の出来事だ。でも俺ゃあまだ腹を立ててるんだ――」なんというか、この感じです。私、これが大好きなんです。

それから『Behind the Music』の各話も遡って何本も観ました。フリートウッド・マックの回も観たし、1977年を扱ったものも。当時の各バンドの様々な状況を他とったうえで1977年というのがロックにとってどのように節目の一年となっていったかを扱っている回です。こちらもすごく参考にしました。デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスというバンドが観客にとってどういう存在だったかだけでなく、当時のミュージックシーンにおいてどんな位置を占めていたのかも、考えておかなければならなかったものですから。



―ところで、あなたがこの作品で提示されているもう一つの要素は、いわゆる「ヨーコ・エフェクト」ではないかと思うのです。バンドに入り込んできた女性が、男性だけのグループにあった完結性を損なってしまう、というやつです。リンダやヨーコのことはどこかで頭にありましたか?

リード:ここは念を押しておきますが、女性がかかわることで、男性だけで構成されていたバンドがダメになるという考え方には、私自身はまったく同意していません。断言します。発想そのものを真っ向から否定したいくらい。確か、つい最近もポール・マッカートニーがこう言っていたはずですよ。「いや、ヨーコ・オノはまったく関係ない」。そもそもが、問題を抱え込んでいないバンドを引っ掻き回すことなんて、誰にもできないんです。

ですから、そういったつもりはまったくありませんでした。ただ、そこには与しないとしても、こういうことは確かに頭にありましたね。「このバンドの中にも外にも強い女性が複数いて、みんなが自力で進んでいるんだわ」。書き終えて自分の書いたものを改めて眺めてみて、私自身が胸を張れました。デイジーにビリーの妻のカミラ、キーボーディストのカレンと、それからデイジーの親友のシモーヌ。この、ほとんど男性だけのバンドの物語の中にこれだけのたくましい女性たちが登場している。しかも彼女たちはそれぞれに違ったキャラクターを持ちながらも、誰一人ただ周囲に振り回されたり、誰かに追従したりは決してしてはいないんです。

―私が気に入っている場面の一つが、カレンが自分は性別とか、性的魅力といったものを超えなくてはならないんだと感じていることを、自ら認める箇所なんです。そうでないと前に進めない、と。そして、だからこそデイジーに圧倒され、遠ざけてしまいたくなってもいく。

リード:ひょっとして私自身も、女性が身一つでやっていくには唯一の道しかないとでもいった考え方に、どこかの段階まではずっと囚われていたかもしれません。でも、実際にはそんなことは全然ないの。彼女たちのように、基本男の世界である場所に自分が身を置いているとして、カレンのやり方に倣うことは一つの手段です。こんな感じですね。

「私はだから、できるかぎり性別なんて超越しているように振る舞うの。そうすれば女であることはなんの問題にもならない」

でも一方でデイジーみたいにすることも可能なんです。こう言うのよ。

「私はただ自分がなりたいと思う自分になる。この体だって、私がそうしたいように装うだけ。で、それが困るっていうんだったら、それはあんたの方の問題でしょ」

私たちは、物事に対処するのにやり方が一つあり、そのほかにはない、みたいな二分法的な考え方にしばしば陥りがちです。でも、どんなやり方も実は間違ってなんていないんです。むしろ仕組みの方がおかしいんです。だから、その仕組みに挑む解決法であればどれだって、私からすればとても素晴らしいものなんです。




『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』
テイラー・ジェンキンス・リード/浅倉卓弥訳
発売中
詳細:http://sayusha.com/catalog/books/pdaisyjonesandthesix

Translated by Takuya Asakura

Tag:

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

MOST VIEWED人気の記事

Current ISSUE