「ロックと女性の物語」ベストセラー小説『デイジー・ジョーンズ』はどう生まれた?

自分自身の声で語ることの重要さ

―あなたの前作にも、相当たくましい女性キャラクターが登場していますが、デイジーを思いつかせたのは誰だったのでしょう? やはりスティーヴィー・ニックス(フリートウッド・マック)が大好きで、自分なりの彼女像というものを創り上げたかったのでしょうか?

リード:本当に徹底的に煎じ詰めれば、あるいはそういうことなのかもしれません。実際はどんな感じだったかというと、本書の前作に当たる『The Seven Husbands of Evelyn Hugo』(編注:7人の夫と結婚した、79歳の元ハリウッドスターの真実に迫る物語)を書き上げた時には、自分でも、著名な女性について書けることはもう書き尽くしたんだろうな、と考えていました。

でもやがて、芸術上の共同作業というものに惹かれている自分がいることに気がつきました。とりわけ実人生と作品との境界さえあやふやにさせてしまうような才能同士によるそれです。こういうのは、音楽の世界にしばしば見つかるかとも思いますが、たとえば男女が一緒に歌っている時、見ている者には、この感情は本物なのか、それとも舞台の上だからこそのものなのか、といった部分がはっきりわからなくなることがある。そしてそれが本物に思えれば思えるほど、惹き込まれ、耳を傾けずにいられなくなることはいうまでもありません。(フリートウッド・マックの)『噂』が傑作なのはそのせいです。だからこそあの作品は、今なお歴史的な輝きを放ち続けているのだと思います。

それからもう一つ、シヴィル・ウォーズ(編注:米カントリーの男女デュオ、2014年解散)のことが頭にありました。彼らが大好きだったんです。二人が袂を分かってしまった時には、理由を知りたくてたまらなくなりました。信じられないくらい親密でロマンティックな作品たちを、力を合わせて創り上げていた二人の間に、そういった関係が実は一切なかったという部分の物語に、すっかり魅せられてしまったんです。解散はまったく出し抜けでした。当時は本当に長い時間ニュースを検索していたものです。何かほんの少しでもわからないかしら、と思って。

そんなふうに、なんだか一切が、共同作業を行う二人、といった発想に回帰していくようでした。はたして二人はお互いに気持ちを抱き合ったりしているのか、それとも全然そんなことはないのか。そこでデイジー・ジョーンズと、その共同作業者であるビリー・ダンという二人のキャラクターの原型が、頭の中で動き始めたんです。




―そのまさに同じ年(2018年)に『アリー/スター誕生』が公開になったんですよね。まさしく宇宙的な偶然くらいには呼べそうな事態にも思えますが――。

リード:まったくね――最初に予告編を目にした時はこんな感じになりましたよ。「どうして私ってば、よりによって音楽のことなんか書いてる訳? これがあればみんなもう十分じゃない」。そして映画を観にいって、半分くらいまで来たところで、隣の席の夫の顔を見ながらこう考えました。「これってまさに『デイジー・ジョーンズ~』がやろうとしていることだわ」

でも映画の方は、ある地点で急に方向転換するんです。そこで私も、デイジー・ジョーンズは、女性たちによる芸術に違った角度から光を当てると同時に、自分自身の声で語ることの重要さを訴えている、と胸を張れるようになったんです。

私は『アリー/スター誕生』も大好きですよ。本当に。劇場にも二回観に行ったし、サントラは今でも聴いています。作品もスタッフも応援していました。けれど、たとえ同じロックの世界の女性を扱っていても、そのベクトルが全然違うことがわかって喜んだこともまた事実だったんです。



―それはそうでしょうね。では、その登場人物たちについて伺わせてください。デイジーというのは、ぶっ壊れていると同時に力強くかつ美しくもあります。こうした複雑なキャラクターを生み出したいと思われた理由について、少しお聞かせいただけますか。

リード:架空の著名人とでもいうべきキャラクターを描く際に私が一番重きを置くのは、いかに彼らを人間臭く見せるか、という部分です。そこがキモなんです。人間ってものはとにかく辻褄が合わない。ひょっとするとこの点が、キャラクターを作り出すという行為を重ねるうちに私自身がたどりついた最大の発見かもしれません。人々は矛盾に満ち、だからこそ、ある誰かが何を言うか、どんな場面でどんな行動を採るかを正確に予測することはとことん難しい。だって私たち、筋なんて本当に通ってませんから。

デイジーはいわば、稀代の傑物にしたかった。美しくて豪勢で、すべてを手に入れている。それでも、もし彼女と一対一で会えば、とても脆くてしかも人間臭いことがすぐにわかる。そういう存在です。その両面を備えさせることは難しかった。相当の大物なのにひどく矮小でもある、ということですから。

それに、これは私見になりますが、ロックスターというのはたぶん、女優とは住んでいる世界が違うんです。現実のロックの女神たちはひどく取っ散らかった人物であることが多い。コートニー・ラヴがまさにそうだし、スティーヴィー・ニックスにしたって、簡単にはつかみきれない部分がある。デイジーもそんな感じにしたかったんです。

―序盤のデイジーのパートで、自分のことをソングライターだと考えている彼女がこんなふうに言われてしまいます。「いや、君はそうではないよ」。なんとも苦々しい場面です。この辺の着想について教えてください。自分に自信を持っている人間が、実はそこまでではない、という。

リード:それこそが実は、私の中で彼女というキャラクターが動き出す、そのきっかけとなった要素かもしれません。こう、カチリとはまったんですね。彼女にはつねに自信に満ちていて欲しかった。「あんたはこっちが言わなきゃならないことに耳を傾けなくちゃならないのよ」と、言葉にできるくらいの自信です。そういうのは実際には簡単ではないですよね。でも彼女はすでに完璧なんです。ところが誰も彼女のことをまだそうは見ていない。けれどやがてある日、誰も彼もが彼女に気づき、彼女もまた報われる――そういう具合になるのであれば、それはそれでいい話だったのでしょうけれど、やや単純に過ぎますよね。

そしてまた、これも明け透けに言ってしまいますが、デイジーというのはお金持ちの家に生まれ、美貌と声にも恵まれているんです。その彼女が一生懸命になるとしたら、いったいなんのためでしょう。そもそも何かを手に入れるために努力するという考え方を持つのでしょうか? この点は真剣に、それこそ徹底的に考えました。

彼女はそのまま優れたソングライターにまで成れるものなのか? 答えはノーです。何かのために努力するということはもちろん、やってみるということさえよく知らないのですから。どうすれば、歌おうとしてみて失敗して、それでもなお続けて自分を磨いていくということができるでしょう。ですから彼女が学ばなければならないのはそこなんです。

多くの人々が人生のもっと早い段階でそういうことを身に着ける訳ですが、デイジーの手にはすでに何もかもがあった。だから、彼女が再び何かに自信を持てるようになり、それでも再び鏡を見た時に、自分にはまだまださらに成長できる余地があることに気づくんだとわかった時、彼女のキャラクターができあがったんです。

―今のメッセージは、いろんな意味で、現在「ミレニアル」と呼ばれている世代や、さらにその下の若い人々にも響きそうですね。そういう若い人たちに対してしばしば口にされる批判というのは、大体はこういうことになるのではないかと思います。つまり 「ちゃんと顔を出したんだからそれなりの報償が欲しい」とか「自分には権利がある」とかばかり主張している、というものです。

リード:それは面白いですね。あるいはそこは「見せかけと実体」といった部分の問題なのかもしれません。その要素こそは、今私自身が、名声というものを題材とすることにひどく興味を惹かれている理由の一つでもあります。私はいわば著名人という、ある意味で台座の上に載せられているような人々を描いています。でも、同時に誰もがそれぞれの日々を生きてもいるのです。今有名な人たちだってそうなんですよ。今の時代にはInstagramやTwitterというものがあります。自分をブランド化して見せることも容易い。自分の毎日を「こう見えたらいい」という形に整えてやることが可能なんです。

こうした行為は、広く文化と呼ばれる領域の人々がずっとやってきたことでもありました。なにがしかの理由で彼らが有名で、人々の注視が自身に集まってきていたからです。ですから、よく見えるものと、本当によいものとを隔てる違いをきちんと理解する必要があるといった部分では、デイジーと現代の若い男女の間にも、ひょっとして通じるものがあるのかもしれません。

Translated by Takuya Asakura

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