日帰りでも気軽にアクセスできる「都市型」、東京・大阪の両会場を行き来する「巡回型」というスタイルを掲げ、2000年の第1回より、フジロックと並ぶ音楽フェスとして真夏を彩ってきたサマーソニック。今も語り継がれるレディオヘッドの伝説的パフォーマンス(2003年)が象徴するように、当初は洋楽ロックが中心だったが、近年は音楽ジャンルの多様化に対応。日本のアイドルからK-POP、EDMやヒップホップ、はたまた懐かしのベテランまで、百花繚乱の開かれたラインナップを実現させている。そして2019年は、開催20回目の節目ということで、2009年以来となる3日間での開催。
東京オリンピックのため休止となる2020年を前に、新たな伝説が刻まれることになりそうだ。そこで今回は、制作部部長と大阪会場の総責任者を兼任し、「清水直樹社長も含めて3番目の古株」であるクリエイティブマンの亀廼井謙に、ハイライトから裏話まで、現場から見たサマソニの20年を振り返ってもらった。
大阪会場の楽屋でクリス・マーティンが…ーまずは改めて、亀廼井さんの担当業務について教えてください。亀廼井 制作部としての主な仕事は、ステージを作ったり会場をデザインしたりするのと、あとは海外アクトとのやり取り。(照明やセットなど)どんなスペックのものが欲しいのかなど、スケジュールとも相談しつつ事前に調整すると。そんな感じで、マウンテン・ステージの海外勢を担当しつつ、会期中は大阪の運営本部に入って、会場で何かあったときに判断を下したりしています。
ークリエイティブマンに入社した経緯は?亀廼井 大学の頃、川崎クラブチッタでバイトしていたときに存在を知って。当時はG.B.H.やエイリアン・セックス・フィーンドなどパンク系の公演を中心に扱っていて、「こんな会社があるんだ」と興味を持ってバイトに申し込み、その流れで入社しました。92年頃の話です。
ーではここから、20年携わってきたサマソニの記憶を振り返っていただきたいです。亀廼井 最も印象深いのは、やっぱり2000年の第1回ですね。特によく覚えてるのがシガー・ロス。当時はまだ日本のレーベルがついてなくて、「レディオヘッドの前座に抜擢された凄いバンドがいる!」ということで呼んだら、聴いたことのないような独特の世界観を持っていて。今ではすっかり大きなバンドになりましたね。
2000年
ー彼らがラインナップの一番下ですものね。しかも、その上がコールドプレイだったという。亀廼井 コールドプレイは「Yellow」がヒットした直後でしたよね。僕はもともとフレーミング・リップスのツアーをずっとアテンドしてたんですけど、大阪会場の楽屋に行ったら(リップスの中心人物)ウェイン・コインが、「音楽とは……」みたいな講義を急に始めて。それをクリス・マーティンが真剣に聞いていたんですよ。
ー微笑ましいエピソードですね。初年度のみ、東日本の会場は富士急ハイランドでしたが、翌年からマリンスタジアム&幕張メッセに移っています。亀廼井 僕は2007年まで大阪担当だったんですが、千葉ロッテマリーンズが好きで、聖地で音楽フェスが行われるなんて素晴らしいと思いました(笑)。2001年はパンク系の強かった年で(ランシド、ゼブラヘッド、MxPxなど出演)、バンド同士で仲がいいから、日本に来てもいたずらし合ってるんですよ。楽屋のドアを開けたら、椅子がブワーッと積み上げてあったり。そんな和気あいあいとしたムードをよく覚えています。
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
ーそこから2007年までに、大阪でのサマソニで印象に残ってることは?亀廼井 ガンズ・アンド・ローゼズは何かと大変でしたね。あんなに大きいバンドを呼ぶのは初めてで、楽屋の不備だったり、予定どおりに動いてくれるかなど段取りが難しくて。あれは勉強になりました。
ーライブで印象的なシーンというと?亀廼井 やっぱり、“あの時”のレディオヘッド。ウチの会社でもともと呼んでたので、前夜の照明プログラムにバンドの知り合いのスタッフも入れたりして。そうしたら、鳥肌モノのショーで……。
ー2003年の話ですよね。大阪で先に「Creep」が披露されて。亀廼井 そうそう。今だったらTwitterとかでネタバレしちゃいそうですけど、当時はまだWEBメディアの普及前で、2ちゃんねるくらいしか知る術がなかった頃だから、東京の人たちにもサプライズ感がありましたよね。