過剰な物質主義へ警鐘、アメリカ人が「こんまり」の虜になった理由とは?

近藤が問題の家と「ご対面」した後(彼女が無言でうつむいたまま歩き回り、緊張が流れる、というのがお決まり)、彼女は家族に順を追って片付けのプロセスを説明する。カテゴリー別にものを分類し、「ときめかない」ものは思い切って捨てる、という極意を伝授するのだ。日本語の「ときめく」とは、直訳すれば「heart afflutter(胸がどきどきする)」だが、それを見事に意訳した「spark joy」は、いまやおなじみのフレーズとして定着した。着古したパーカーにお礼を言って、寄付する品々の山に放り込む、というのに抵抗を感じるなら、こんまりメソッドが神道に根差していると考えてみればいい。精神世界のエネルギーは身の回りのあらゆるものに宿っているのだ(10代のころ、近藤は神社で巫女のバイトをしたことがある)。

近藤は、感情的な愛着心ゆえになかなかものを捨てられないことを大事にする。それがこの番組の人気の秘密だ。ほかの自宅改造番組は、とにかく古いものを捨てて、最先端な部屋に変身させるという一方的な方法だが、この番組はそうではなく、愛着や恐れの根底には、どれを捨ててどれを大事にするかという意思決定があるのだ、という事実に基づいている。近藤が訪問する家はどこも天井に届くほど不用品だらけだが、往々にして、ついついため込んでしまったものと、大事だから、あるいは捨てられなくてため込んでしまったものとの間にはハッキリした境界線がある。たとえば第4話では、最近未亡人となった女性は自分の持ち物よりも、亡くなった夫の持ち物を片付けるほうに一生懸命だった。別の回では、服を買いすぎると妻を責め立てる夫が、自分の野球カードの山を処分することには二の足を踏んでいた。

結果的に、片付けのプロセスはカップルセラピーやグループセラピーの様相を呈し、ものに支配された人々に多かれ少なかれ気づきを与えてくれる。驚くことでもないが、カップルのうち女性のほうが(番組で取り上げられているカップルのほとんどが異性愛者)、家が汚れるようになった原因は自分たちにあると非を認める傾向にある。「私が悪いと思います。だって母親ですから」と、第3話である女性は素直に認めた。「母親は家を家らしくするのが仕事でしょう」番組が意図しているかどうかはさておき、『人生がときめく片付けの魔法』ではしばしば、片付けの責任問題に関する男女間の不平等が正される。

毎回お片付けの最後に現れる結果は、いわゆる『クイア・アイ』や『Trading Spaces』のような驚きの展開とはならない。近藤は誰かの代わりに自宅を変身させるわけではなく、自分で家を片付けるのに必要な、当たり前の手段を教えているのだ。DIYも、ボビー・バークによる改装費ほど決して高くない。『人生がときめく片付けの魔法』で描かれるのは、アメリカの自宅改造計画番組によくありがちな“ちちんぷいぷい”の魔法ではなく、自分のゴミは自分で責任をもって片付けるという、ごくあたりまえのことを毎日かかさずやる、ということなのだ。

ちなみに、この手のものはテレビ向きとは言えない。だがそこはどうでもいい。雪が荒れ野に降り積もるように、この番組は脳に少しずつ効果を蓄積させていく。最初は戸惑うかもしれないが、やがて夢中になり、少し飽きてきたかなと思ったころ、気づけばキッチンの食器棚は全部きれいに、靴下の引き出しも見違えるほど整っているだろう。

『人生がときめく片付けの魔法』は、まぎれもない事実を教えてくれる。いくつになっても人生は変えられる。傷は元に戻すことができる。無機質な物質から喜びをひねり出しているのは自分たちなのだ。何かにすがって生きるのは居心地がいいが、それを手放すこともまたしかりなのだ。

Translated by Akiko Kato

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