ツェッペリンとローリングストーン誌の激しい対立秘話

1975年当時17歳だったクロウは、レッド・ツェッペリンのカバーストーリーを任されたが、当初バンド側は取材を拒否していた。「成功を収めていた彼らとしては、表紙を飾ることはバンドのためというよりローリングストーン誌の方にメリットがあると考えていた」とクロウは言う。しかし彼は引き下がらなかった。「ローリングストーン誌の取材にOKが出るまで1975年のツアーについて回ろうと目論んだ」と彼は明かした。「ある晩のライヴ後、移動中の機内でジミー・ペイジに話しかけると彼に、“おい、ジョー・ウォルシュが俺に、お前を信用すべきだって言ってるぞ”と言われたんだ。彼は表紙用に、腕いっぱいの黒い薔薇を抱えてポーズを取った。ローリングストーン誌に対する彼なりの主張だったが、ローリングストーン誌側は結局、表紙としてバンドのライヴショットを選んだ」

クロウ曰く、レッド・ツェッペリンはネガティヴな記事も名誉の証だと考えているという。「彼らに批評家は必要ない。ザ・ローリング・ストーンズは、ストレートな批評やトルーマン・カポーティ的インテリ層のおかげでさらに“認知度”が上がった。レッド・ツェッペリンの場合は違う。彼らはコンサートのために広告を打ったり、シングルをリリースする必要がなかった。熱烈なファンのおかげで、コンサートは口コミでソールドアウトになる。彼らは、“自分たちの音楽が長い間放って置かれるはずがない”とわかっていたんだと思う」


メンデルソンのロック批評家としての長いキャリアは、意外な形で始まった。彼がアルバム『レッド・ツェッペリンI』のレビューをローリングストーン誌へ郵送した時、彼はまだ21歳。その記事はもともと、UCLAの大学新聞向けに書いたものだった。驚くべきことにローリングストーン誌は彼の記事を採用し、間もなくメンデルソンはローリングストーン誌のレギュラーメンバーとして、厳しい批評を展開するようになる。彼は、ザ・キンクスのバイオグラフィ『The Kinks Kronikles』(1984年)をはじめ何冊かの本も執筆している。またクリストファー・ミルクなどのグループで、ソングライター&ミュージシャンとしても活動した。同グループは、1970年代にワーナー・ブラザーズからアルバムも出している。ロバート・プラントは後にメンデルソンの批評を、「“挫折したミュージシャン”による不満だ」と切り捨てた。

最終的に批評家たちも世界の流れに乗ることとなり、アルバム『I』と『II』を、後に続く数々のバンドの青写真となった名盤として評価するようになる。しかし、メンデルソンは依然としてレッド・ツェッペリンを気に入っていない。「YouTubeで古いバンドのビデオをたくさん観てみたが、レッド・ツェッペリンに関しては自分が21歳の時に思ったのと全く同じ感想だったので、ほっとした」と2006年に彼はローリングストーン誌に語っている。「私はメロディ、ウィット、ヴォーカルハーモニー、表現力を重視するが、そのどれもレッド・ツェッペリンには欠けている。彼らはただ見せかけだけのバンドだ」

Translated by Smokva Tokyo

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