ジミ・ヘンドリックスの伝説的スタジオ「レコード・プラント」誕生秘話

レコード・プラントでの長時間にわたるセッションはその後も続き、ヘンドリックスは一晩2500ドルという膨大なコストを少しも惜しまなかった。レコード・プラントのエンジニアのジャック・アダムスは、ローリングストーン誌にこう語っている。「10時間ぶっ通しでミックス作業をさせられて、限界に達した僕は有無を言わさず帰宅した。ところが朝10時頃に、スタジオの掃除係が電話してきてこう言うんだ。「ここで寝転がってる奴らを何とかしてくれよ、仕事にならないからさ」

そこにヘンドリックスが常駐しているという噂が広まったことで、レコード・プラントを使いたいというオファーが殺到するようになった。雨によるダメージでひどく歪んでしまっていたウッドストックのサウンドトラックは、新たに作られたBスタジオで見事に修復された。クロスビー、スティルス&ナッシュは、初期の音源をそこでレコーディングしている。またヘンドリックスがレコーディングしていたある時には、ホールを挟んだ向かいのスタジオでは、レスリー・ウエスト・アンド・マウンテンが『ミシシッピ・クイーン』のレコーディングとミキシングを行なっていた。

増え続ける需要に対応するため、ケルグレンとストーンは腕利きのエンジニアたちを新たに雇った。そのうちの1人だったロイ・シカラは、後にザ・ニューヨーク・スタジオのオーナーとなり、ジョン・レノンとタッグを組みつつ、ジャック・ダグラスやシェリー・ヤカス、そして将来Beatsブランドの大成功によって億万長者となるジミー・アイオヴィンといった、業界を代表するエンジニア/プロデューサーを育て上げていく。ヘンドリックスの創作意欲はとどまるところを知らず、当時は12名ものアシスタントが雇われていた。その中の1人だったトーマス・アーデライは、後にトミー・ラモーンとして名を馳せることになる。

1969年末頃には、ヘンドリックスとケルグレンの蜜月が終わりを迎えようとしていた。ジョン・マクダーモットによると、その原因はある女性を巡る対立か、あるいはケルグレンがほとんどスタジオに姿を見せなくなっていたためだという。当時ケルグレンはロサンゼルスに、ジャグジーと派手なバックルームを併設した新たなスタジオを作っている最中だった。エディ・クレイマーが独立することになった時、ヘンドリックスもまたレコード・プラントを去ることを決意する。

彼は再びクレイマーを雇い、ナイトクラブを専門とする建築家のジョン・ストライクと共に、グリニッジ・ヴィレッジにあった元クラブをプライベートスタジオに改造した。「いちアーティストがスタジオを所有するなんて話は、当時は聞いたことがなかった。しかも場所はダウンタウンだ。今じゃ珍しくもないことだけど、エディー・クレイマーはその走りだったんだ」ストライクはそう話す。

エレクトリック・レディ・スタジオは、その名前のせいで『エレクトリック・レディランド』がレコーディングされたスタジオだと誤解されがちだ。しかしヘンドリックスが実際にそのスタジオを使用したのは、彼がこの世を去る直前の1ヶ月間のみだった。

同スタジオの構築には莫大な費用がかかり、スケジュールは大幅に遅れていた。1970年の春にヘンドリックスがレコード・プラントを使っていたのはそのためだった。

『エレクトリック・レディランド』は、ヘンドリックスがレコード・プラントに入り浸った2年間で作られた唯一のアルバムとなっている。それでもなお、同スタジオは短期間のうちに無数の名セッションを生み出した。先日発売になった未発表音源集『ボース・サイズ・オブ・ザ・スカイ』に収録された、ヘンドリックスとスティーヴン・スティルスとバディ・マイルスによるジョニ・ミッチェルのカヴァー、『ウッドストック』のエディー・クレイマーによるリミックスもそのひとつだ。「僕には(ケルグレンとストーンが)ヘンドリックスを利用しているだけのように思えた」クレイマーは最近そう話している。「彼らはただテープを回すだけで、後はヘンドリックスに好きなようにやらせているだけだった。結果的にはそれでよかったんだけどね。彼らがテープレコーダーのスイッチを入れ忘れなくてよかったよ」

ケルグレンと共に立ち上げたレコード・プラントを去る際、ヘンドリックスは名残惜しそうだったという。「彼にたっぷりのマリファナをプレゼントしたよ」スタジオのマネージャーを務めたフラン・ヒューズはそう語る。「誰かから何かを贈られるのに慣れてなかったんだろうね。よほど嬉しかったらしく、泣き崩れてたよ」

ヘンドリックスのエンジニアだったリリアン・デイヴィスは、スタジオの端から端まで床に並べられたケースに、ローディーが1本ずつギターを入れていった時のことをよく覚えているという。「ヘンドリックスは1人で佇んでて、並んだギターをただ見つめてた。まるでそれが自分の全コレクションであるかのようにね」

レコード・プラントでの最後の数ヶ月間、10階にあった別のスタジオ(当時はソニーミュージックが所有および運営していた)に移っていたヘンドリックスは、ビルの屋上を憩いの場としていた。後年に「Brooklyn」のプリントTシャツ姿のジョン・レノンと若き日のジミー・アイオヴィンが、ここでカンカンを踊ったことは広く知られている。またブルース・スプリングスティーン&ザ・E・ストリート・バンドは、『闇に吠える街』のプロモーション用写真を同建物のエレベーターシャフトで撮影している。

マスターピースを生み出したそのスタジオを去る直前の1970年、いつものように屋上に上がったヘンドリックスとエンジニアのジャック・アダムスは、レコード・プラントにあった書類で折った紙飛行機をいくつも飛ばした。タイムズ・スクエアの摩天楼に眼下に、2人はどちらが飛行機を一番遠くまで飛ばせるかを競い合った。

Translated by Masaaki Yoshida

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