ジミ・ヘンドリックスの伝説的スタジオ「レコード・プラント」誕生秘話

1968年5月上旬に行われた『ヴードゥ・チャイル』のセッションは、レコーディング時におけるヘンドリックスの新たなライフスタイルを象徴していた。レコード・プラントで夜通し作業した後は、初の全米ツアーに出ていたトラフィックも出演したザ・シーンに足を運ぶ、その繰り返しだった。ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのドラマーのミッチ・ミッチェル、トラフィックのスティーヴ・ウィンウッド、そしてジェファーソン・エアプレインのジャック・キャサディらとジャムセッションを重ね、コントロールルームには常に取り巻きが群がっていた。

「ジャムりたい時はスタジオに行った。大勢の仲間を連れてね」『エレクトリック・レディランド』のライナーノーツによると、ヘンドリックスはそう語ったという。エクスペリエンスのベーシストだったノエル・レディングは、その頃からバンドは崩壊に向かっていったと語っている。「人が多すぎてまともに身動きがとれなかった。あれはセッションなんかじゃなく、単なるパーティだった。俺は頭にきて、スタジオから全員追い出せとジミに言った。でもスタジオを出ていったのは俺の方だった、我慢の限界に達したんだ」


レコード・プラントでのヘンドリックス 1969年4月 Willis Hogan Jr./© MoPOP/Authentic Hendrix, LLC

代理でベースを担当したキャサディは、その日は『エレクトリック・レディランド』のセッションにおける典型的なパターンだったと話す。「コード進行を一度だけ確認して、あとはひたすら弾き続けた。確かジミが弦を切って、張り直してる間だけダラダラした覚えがあるけど、その後はワンテイクで曲を録った。それがそのまま音源になったんだ。15分間の曲を、せーので一発録りしたんだよ」

ラジオ受けを狙ったというディランのカヴァー、『見張塔からずっと』のレコーディングは、例外的に計画立ててレコーディングされた。イギリス滞在時に初録音された同曲は、1968年の夏にレコード・プラントで何度もアレンジが加えられ、数多くのサイドマンが招聘されたほか、ヘンドリックスは同じギターソロのバリエーションを無数に生み出した。ニューヨークで行われたヴォーカルのレコーディングでは、ヘンドリックスは3面パネルの中に閉じこもって歌ったという。マスターテープのラベルにはクレイマーの名前がクレジットされたが、ケルグレンの親友であり、バンド・オブ・ジプシーズのサックス奏者のジミー・ロビンソンは、「あのレコードではゲイリーの手腕が大いに発揮されている」と主張している。

『エレクトリック・レディランド』は、エクスペリエンス名義としては唯一の全編ステレオミックスのアルバムだが、正式にリリースされた音源では、ヘンドリックスとレコード・プラントのエンジニアたちが必死の思いで生み出した3Dエフェクトが歪んでしまっていた。それでも発売から1ヶ月もしないうちに、レコード2枚組の同アルバムはチャートの首位を獲得した。7万ドルに上ったスタジオでのコストと引き換えに、ヘンドリックスはヒットシングルに恵まれ、初の全米ナンバーワンアルバムを送り出すことに成功した。

Translated by Masaaki Yoshida

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