50年前の未解決事件、音楽フェス目指しヒッチハイクの旅に出た高校生は今どこへ? 米

失踪から25年目にあたる1998年、筆者はニューヨーク支局の調査報道記者として、2人の身に何があったのか調査に乗り出した。後日掲載された記事から、警察の不能ぶりや不手際のパターンが判明した。サリバン郡保安官局やニューヨーク市警の行方不明者捜索班は、事件ファイルの原本だけでなく、証人候補者のリスト、捜査官のメモ、遺体確認の際に利用可能な2人の歯科カルテも紛失していた。

NYPDの行方不明者者捜索班を指揮していたフィリップ・マホニー氏は1998年のインタビューで、「なんともお恥ずかしい限りです」と認めた。マホニー氏自身も10代のころサマージャムを見に行っていた。同氏いわく、捜査ファイルは初期の段階で紛失したそうだ。

サリバン郡の元刑事アンソニー・スアレス氏も、1994年に事件を引き継いでから証人リストを探そうとしなかったこと、事件を最初に担当した捜査官に連絡もしなかったことを認めた(スアレス氏は2020年5月に他界)。


1973年7月28日、ワトキンズ・グレンのサマージャムに集まったコンサート参加者と警察(RICHARD CORKERY/NY DAILY NEWS ARCHIVE/GETTY IMAGES)

スカイラー郡のマイケル・マロニー保安官は、警察の怠慢を嘆いた。警察はFBIの全米データベースにも2人の名前を登録していなかった。「しかるべき措置が行われず、なんとも申し訳ない」とは、1998年のインタビューでのマロニー保安官の発言だ(マロニー保安官は2023年3月に他界)。

新聞の調査をきっかけに、家族と友人の怒りが再燃した。家族らはニューヨーク州知事と州司法省が介入して再捜査を行うよう訴えた。「私たちは怒り心頭していました」とウィーザー・リーブゴットさんは言う。「警察の無能ぶりと関心のなさに、心底うんざりしていました」。

2000年、ミッチェルさんの高校のクラスが卒業25周年に同窓会を開き、集まった旧友は行方不明の同級生を偲んでブルックリン自生の丈夫な木、ノルウェー・サトウカエデを1本植えた。また記念碑も建てられた。両サイドを粗く削った薄炭の花崗岩の素地には、「ミッチェル・ウィーザー、ボニー・ビクウィット。私たちはずっと忘れない。74年、75年卒業生より」という文字が彫り込まれている。

ボニーさんの友人フェスタさんによれば、同窓会では失踪事件による生活への影響で話が持ち切りだったそうだ。「昔話になると必ずこの話題になりました。いまだに事件の痛みと謎が離れませんでした」と、2000年にMSNBCの取材でフェスタさんは語っている。「あの夏から、私たちにとって世界は一変しました。安全だと思っていたこの世界が、実はそうではないと気づかされたのです」。

2000年6月、家族と友人の願いは聞き届けられた。ニューヨーク州のジョージ・パタキ州知事が州警察のロイ・ストリーヴァー捜査官(サリバン郡の住民でもある)を、エリオット・スピッツァー州司法長官がニューヨーク市警のウィリアム・キルガロン刑事をそれぞれ任命し、事件の再捜査にあたらせたのだ。

突如、流れが変わった。

一方そのころ開局したばかりのケーブルTV局MSNBCは、オリジナル新番組として実録犯罪シリーズ『Missing Person』の放映準備を進めていた。ミッチェルさんとボニーさんの事件も初回シリーズの候補に挙がっていた。2000年7月に撮影班がウェルメット・キャンプ場に出向き、筆者と霊能力者モーリス・シックラー氏も同行した。同氏は2人の幻影が見えたと主張し、2人はすでに死んでいて、ウェルメット・キャンプ場近くの採石場に埋められていると言った。

キャンプ場付近の林を歩いていると、シックラー氏が啓示を受けたと言い出した。「丘の上で殺しがあったに違いない。ミッチェルさんはベトナム帰還兵の男に殺された。それから男は数日後に、別の場所でボニーさんを殺害した」。

シックラー氏は殺人者について、「名前はウェインかウェイド、ウィリーかもしれない。犯人はまだ生きている」と言った。

3カ月後の10月、宝石メーカーに勤務するロードアイランド在住のアレン・スミスさん(当時51歳)は、チャンネルザッピングをしていたところ偶然『Missing Persons』が目に留まった。

ロックコンサートが映り、興味をひかれたスミスさんはそのまま番組を見続けた。コンサートの参加者で唯一行方が分からなくなった人物としてミッチェルさんとボニーさんの写真が映ると、スミスさんは興奮して妻を呼んだ。「おいお前、これはビックリするぞ」。

スミスさんは番組の最後に出てきた番号に電話したが、なかなかつながらなかった。スミスさんは電話をかけ続けた。ロードアイランドからニューヨークへ長距離電話――当時は決して安くない――をかけ、ようやくしかるべき部署につながった。「私につながるまでにかなり苦労したようです」とストリーヴァー氏は振り返った。

スミスさんは2人とは赤の他人で、コンサートに全く近づけずに家までヒッチハイクしていた2人と偶然出会った。スミスさんの記憶では、2人は若く「やせっぽっちで」、サマーキャンプについて話していたという。女性のほうは頭にバンダナかスカーフを巻いていたそうだ(ケイゲンさんは、妹が時々スカーフを巻いていたと認めた)。「とてもキュートで、おしゃれでした」とケイゲンさん。

スミスさんが捜査官に供述した話によると、3人はペンシルベニア州のナンバープレートをつけたオレンジ色のフォルクスワーゲンに乗せてもらったそうだ。その日は暑く、一行はサスケハナ川に立ち寄って涼をとることにした。水流が急になることもある全長450マイルの川だ。

2人が川に入った時、スミスさんは川岸から約100フィート離れた辺りに立っていた。突然女性の叫び声が聞こえ、視線を向けると女性が水の中でもがいていた。男性が彼女を助けようと飛び込んだが、2人ともすぐに川がカーブするところで波にもまれ、不慮の事故で溺れたという。

スミスさんはとっさに何もできなかった。「水に飛び込むのは絶対にごめんだ」とスミスさんは思った。2人の姿が見えなくなり、スミスさんと運転手はなすすべがないと判断した。人里離れた場所で、助けを呼べる場所もなく、2人はワゴンに戻ってその場を去った。「(運転手から)『この後ベンシルベニアに向かう。ガソリンスタンドで警察に通報する』と言われました」と、2000年にスミスさんは語っている。「もし運転手が(電話を)かけていれば、記録が残っているかもしれません」。

運転手が電話するだろうと高をくくり、スミスさん本人は事故を通報しなかった。マリファナでラリっていたので警察と関わりたくなかったのだ、とスミスさんはストリーヴァー捜査官に語った。

Akiko Kato

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