ヒップホップ・カルチャーを担う女性たち「Shiho Watanabe」

渡辺志保(Photo by Mitsuru Nishimura)/撮影協力:Quintet

ヒップホップ・ライターのみならず、ラジオパーソナリティやイベントのMC、さらには海外アーティストのアテンドなど、裏方としても幅広く活躍する渡辺志保。普段はアーティストをインタビューする立場である彼女の内面やキャリアを紐解いたら、そこはヒップホップへの愛とリスペクトで溢れていた。

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ーブラックミュージックとの出会いについて教えてください。どんな点に惹かれたのでしょうか?

渡辺 初めは小学2年生くらいのときです。ディズニーアニメ『アラジン』のVHSを最後まで見ていたら、特典映像としてR&Bシンガーのピーボ・ブライソンとレジーナ・ベルが「A Whole New World」を歌っている映像が収録されていたんです。そのとき、日本人ではない人が歌っている映像を初めて意識して、「肌の色の違う人の歌声ってこんなに素敵なんだ」と気づいて。今思うと、それがブラックミュージックへの目覚めだったんじゃないかと思います。その2年後くらいに、フジテレビ系列で朝OAされていた『ポンキッキーズ』という番組を知って。スチャダラパーのBOSEさんや電気グルーブのピエール瀧さんなどが出演されている、音楽的にとても実験的な番組だったんです。そのオープニングが、BOSEさんが歌う「GET UP AND DANCE」っていうスチャダラパーの楽曲を番組用にアレンジしたもので。みんなが手拍子しながらラップをしていて、その言葉遊びと手拍子のリズムで歌になっている感じがおもしろいと思って。その2つの出来事が小学校低学年くらいで起こって、それをなんとなく繋げて、「私は黒人が歌っている歌が好きなのかも」と気づきました。

ーそこからどのようにヒップホップに興味が湧いたのですか?

渡辺 最初は歌モノの方が好きで、ヒップホップにハマったのはそこから少し先の中学2年生くらい。R&Bの曲を聴いていると絶対に「feat. 〇〇」みたいな表記と一緒に、おしゃべりみたいな早口言葉が入っていて、その早口の部分が好きだと気づいて(笑)。クレジットを調べていくうちにパフ・ダディとかノーティー・バイ・ネーチャーとか、そういうアーティストたちに断片的に出会っていきました。

ーその頃はどうやって新譜をディグしていたんですか?

渡辺 当時広島に住んでいた頃は、タワレコやHMVに行って、毎回フリーペーパーをゲットしてましたね。最初は海外のラップをよく聴いていたから、お金を貯めて輸入雑誌の『VIBE』とか『SOURCE』もたまに買ってました。あとはリリックのサイトを調べて、プリントアウトして意味を調べたり。『bmr』とか『BLAST』は文字数が多いし、ちょっと専門的な内容が多かったから、実際に読むようになったのはもっと後の高校2年生くらいだったと思います。

ー日本のヒップホップとはどのように出会ったんですか?

渡辺 ディグっていくと、OZROSAURUSやSHAKKAZOMBIEみたいなアーティストが日本にもいると知り、徐々に興味を持ちました。あとは私が中学3年生くらいのときにZeebraさんとDragon Ashの「Grateful Days」がリリースされたり、MISIAさんがデビューして、そこにDJ WATARAIさんのリミックスが入っていたり、そういう日本のヒップホップ・ムーブメントみたいなものがあって、情報も割と沢山入ってきましたね。

ーそこからどうやってヒップホップ・ライターという仕事を認識するようになったんですか?

渡辺 当時読んでいた雑誌や国内盤CDのライナーノーツを見て、こういう文章を専門に書く仕事があることを知ったんです。私は特に、人の前に出たいみたいな夢がなかったので、こっちならいけるかも、と。というのも、私の父親が新聞記者でスポーツジャーナリストだったんですけど、彼自身も、自分はボール一つ投げない超文系だったのに、スポーツについて書いたり報道したりすることが好きで。だから自分も歌ったりラップしなくても、楽曲を解説したり、歌詞を対訳したりすることならできるんじゃないかと思って、高校に入学する頃には音楽ライターになりたい気持ちが生まれていましたね。しかも、その頃ラップの対訳をたくさん手掛けていたのが泉山真奈美さんという女性で。他にもRIKOさんというDJ/VJの方がスペースシャワーTVでラッパーの方たちと喋る番組も持たれていて、女性がヒップホップの情報を伝える、ということは私にとってかなり自然なことでもありました。

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