ビリー・ジョーが選出、グリーン・デイを象徴する15曲

4.「SHE」
『ドゥーキー』(1994年)

Catherine McGann/Getty Images

アマンダという名前のガールフレンドがいて、彼女はカリフォルニア大生だった。彼女からフェミニズムをたくさん教わった。彼女から教えられたことは、そのとき非常にタイムリーだったと思う。俺は高校を中退した頭の悪いガキだった。女性が長年モノ扱いされてきた状況を彼女が説明して、俺はその話をしっかりと聞いていた。この曲は彼女へのラブソングとして作ったけど、彼女の活動を学ぶ自分についても歌っている。「俺の耳が血を流すまで叫べ」の部分では、俺は心の中で「俺はここでちゃんと聞いているよ」と伝えていたんだ。どんな活動であれ、まず第一にすることは相手の話をしっかりと聞くことだ。

この曲は理解について歌っている。この曲は歌っていて本当に良い気分になるんだ。この曲を作ったことが誇らしい。不要なものが一切ないシンプルな3コードの曲だ。まるでカルトの英雄だな。この曲はシングルにはならなかったけど、この曲にはこの曲なりの命がある。こういう曲は特別な曲だ。




5.「ロングヴュー」
『ドゥーキー』(1994年)

Ebet Roberts/Getty Images

プリテンダーズの「Message of Love」という曲が非常に好きで、この曲のような曲を作りたかったが、ベースラインが必要だった。その頃、俺たち全員でカリフォルニア州リッチモンドにある家で同居していて、俺は映画を観に出かけたと思ったな。家に残った連中はLSDをやっていた。だから、帰宅したとき、マイクはキッチンの床に座ってハイになっていて、ベースを持って「わかったぜ、なぁ、わかったんだよ!」と言ったのさ。そして、そこであのベースラインを初めて弾いてくれたんだ。俺はその状態をどう受け止めたらいいのかわからずにいた。だって「こいつ、今ラリッてるから、後で覚えているかも怪しいな」と思ったもの。次の日、全員でその曲をやってみて、あのベースラインはそのまま残ったんだ。

歌詞は、負け犬の気分で、テレビを観ながら、マスターベーションして、孤独を感じることを歌っている。あの頃の俺はけっこうビビッていた。不安定な状態でね。ガールフレンドもいなかったし、エイドリアンと一緒になるには4年くらいかかったから。たしか90年から94年だったかな。それにメジャーなレコード会社と契約したあとの反動が起きていた。俺たち、もともとはアンダーグラウンドなバンドだったからね。物事が手に余り出して、一か八かの契約に思えたんだ。この曲は注意深く聞いてみると、本当に独特の響きを持った曲だよ。スウィングするリズムなんて一人も演奏していないし、サビのあのパワーも誰も弾いちゃいない。グランジはすでに勢いがなくなり、精彩を欠いていた。俺たちはグランジよりもハードでアップビートなシーンの出身だった。それに、この曲はものすごくダンサブルで、聞くとみんながクレージーになったんだ。




6.「ブレイン・シチュー」
『インソムニアック』(1995年)

Niels Van Iperen/Getty Images

この曲は相当なダークホースだ。ちょうどレコーディング用機材を手に入れたばかりで、最初に試運転的に使ってみたときにあのリフを思い付いた。「ああ、これってクールだな。ちょっとハードなビートルズの曲って感じだな。うん、『ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス』って感じかも」と思った。この曲はメタンフェタミンの曲。不眠で夜ふかししているって内容だ。あの頃、俺たちがいたパンクシーンにじわじわと広がっていて、俺もしっかり試してみた。マジで、あれは悪魔の薬だよ。

当時、俺の周辺環境が本気で恐ろしい状態になってきた。俺は熱心なソングライターだし、ミュージシャンだけど、当時最も売れたポップス系レコードに匹敵するほど『ドゥーキー』が大ヒットしたとき、内心「俺はロッカーだ。俺はパンクロッカーだ。ポップスターなんかよりも大事なのはこっちだ」と思っていたんだ。そういう感覚があのレコードに入っていたんだよ。

いろんなことが一度に起きたんだ。結婚したし、子どももできたし、俺は23で、知らない連中が木によじ登って家の中を覗き込んでいた。これはロックスターとか、有名になる人間にもたらされる恐怖の一つだ。自分の人生を自分でコントロールできなくなる。だから、俺はグリーン・デイのもっと醜い側面を見せてやろうと思ったんだ。


Translated by Miki Nakayama

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