レッド・ツェッペリン『聖なる館』:知られざる10の事実

JORDAN RUNTAGH | 2018/04/03 21:00

| 1973年6月5日、レッド・ツェッペリンのメンバー (Photo by Michael Putland/Getty Images) |


7. カバー写真は2人の兄妹による、10日間に及ぶ撮影の成果だった

野生化した子供たちが幾何学的な形の石で形成された山を登っていくという『聖なる館』の印象的なカバーには、超常現象とSFに対するバンドの関心が如実に反映されている。子供たちが世界の果てに向かって進んでいくというコンセプトは、『2001年宇宙の旅』の作者、アーサー・C・クラークによる『幼年期の終わり』にインスパイアされたという。デザインを手がけたのは、ピンク・フロイド、T・レックス、ELO等、70年代初期を代表するバンドの作品の数々で知られていたヒプノシスだった。

「ある日、ジミー・ペイジから電話がかかってきたんだ」ヒプノシスの結成メンバーの一人であるオーブリー・パウエルは、2017年にローリングストーン誌にそう語っている。「彼はこう言った。『君らが手がけたウィッシュボーン・アッシュのアルバム(『百眼の巨人アーガス』)のカバーを目にしたんだ。レッド・ツェッペリンのアートワークを手がけてみる気はないか?』」オファーを出しながらも、ペイジはアルバムのタイトルはおろか、曲の方向性や歌詞についても一切情報を提供しなかったという。「気難しくて偏屈、噂で聞くジミーのイメージそのものだった。彼はこう言った。『3週間後に会えるから、それまでに何かアイディアを出しておいてくれ。俺たちがどんなバンドかは知ってるだろ』」しかしパウエルのパートナーであるストーム・ソーガーソンが出したアイディアのひとつが、ペイジの逆鱗に触れてしまう。「やつが持ってきた写真の中に、電気仕掛けのグリーンのテニスコートとラケットを写したものがあった」ペイジはGuitar World誌にそう語っている。「俺はこう言った。『これは一体何なんだ?』するとやつはこう答えた。『ラケットさ、見ればわかるだろう?』俺はこう言ってやった。『俺たちの音楽はラケットみたいなもんだってのか?ふざけんな!』それ以来やつには会ってないよ。それにしてもラケットとはね、あれほどの侮辱は受けたことがないよ。大した度胸の持ち主さ!」

パウエルはやっとの思いでペイジを説得し、他の案を検討することになった。そのうちのひとつは、ペルーのナスカの地上絵がある一帯に「ZoSo」のロゴを描くというものだった(いずれにせよペルー政府の許可が下りなかっただろうと、後にパウエルは語っている)。議論の末、北アイルランドにあるジャイアンツ・コーズウェイを舞台にするという案が採用されることになった。アイディアの段階では大勢の子供たちが登場することになっていたが、ヒプノシスが撮影に同行させたのは、サマンサ・ゲーツとステファン・ゲーツという、それぞれ7歳と5歳だった兄妹だけだった。「僕らはみんな、ジャイアンツ・コーズウェイの近くにあった小さなゲストハウスに泊まってた」現在はイギリスでTVパーソナリティとして活躍しているステファンはそう話す。「複数の子供たちに同じウィッグを被らせたと思われているみたいだけど、あそこに写っているのは僕とサマンサだけだし、あれは僕らの地毛だよ。僕はまだ小さかったし、当時は裸でいるのが好きだったから、撮影にも特に抵抗はなかった。僕は進んで服を脱ぎ捨て、ただ好きなように動き回ってただけだったから、それが撮影だっていう感覚もなかったんだ」しかし彼の姉にとっては、10日間に及んだその撮影はあまりいい思い出ではないという。「あの撮影のことはよく覚えているわ。雨が降りっぱなしですごく寒かったから」彼女は2007年にデイリー・メール紙にそう語っている。「当時のモデル仕事では、カメラの前で裸になることは当たり前だった。今じゃ絶対そうはいかないでしょうけどね」

悪天候のせいで撮影は難航した。「1週間雨が降り続いて、欲している画が撮れなかった」パウエルはそう話す。「それで僕は、子供たちの写真だけを使った白黒のコラージュ作品を作ろうと考えた」当初は子供たちをそれぞれゴールドとシルバーに染め上げる予定だったが、雨のせいで色が落ちてしまったため、パウエルは写真に手を加えなくてはならなかった。気の遠くなるような編集作業は2ヶ月を要したため、バンドはアルバムのリリースを1月から3月に延期しなくてはならなかった。しかし威圧的なことで知られるバンドのマネージャー、ピーター・グラントから大きなプレッシャーをかけられる中、エアブラシアーティストが誤って子供の体に紫色を滲ませてしまう。「最初は絶望的な気分になった。『何てことをしてくれたんだ』ってね。でもしばらく見ているうちに、その画に不思議な魅力を感じ始めたんだ」パウエルはそう話す。「その時点で、僕らは方向性を切り替えた」そしてある日のバンドのコンサートの後、パウエルは車のトランクに入った完成作をペイジとグラントに見せた。「ステージ衣装のままだったジミーは、長髪を整えもせずに、ひたすらタバコを吸いながら立ち尽くしてた。作品を一目見ようと、車の周囲には200人くらいの人だかりができて、誰もが作品に賛辞を送った。あの時のことは今でも忘れられないよ」

8. レコーディング済みだったにも拘わらず、タイトル曲はアルバムに収録されなかった

過去のアルバムと同様に、レッド・ツェッペリンの5作目のタイトルには、ローマ数字や謎めいたシンボル以外のものが使用されていた。『聖なる館』というタイトルは、10代の子供たちにとっての「聖地」(映画館、ドライブイン、コンサート会場等)、そして人間の魂が秘める無限の可能性を讃えた歌詞が印象的な、ペイジが書いた同名曲から取られていた。「ある意味では、すべての人間はその体に聖なる魂を宿している。そういう意味合いが込められていたんだ」彼は2014年のシリウスXMとのインタビューでそう明かしている。同曲は1972年6月にエレクトリック・レディで行われたセッションで音源化されていたが、タイトル曲であるにもかかわらずアルバムには収録されなかった。同じくミドルテンポの『ダンシング・デイズ』との類似性がその理由だったが、同曲は1975年に発表された2枚組の『フィジカル・グラフィティ』に収録されている。

9. 伝説のプライベートジェット、スターシップでアルバムのリリースツアーを回った

1973年に行われたレッド・ツェッペリンのアメリカツアーは、当時の観客動員数の世界記録を塗り替えた。最新作を引っ提げた4人の姿を拝むべく、5月5日のタンパ・スタジアム公演には5万6800人のファンが詰めかけ、ビートルズが持っていたシェイ・スタジアムでの動員記録を更新した。当時ロック界の頂点に君臨していたバンドは、そのステータスに見合った移動手段を必要とした。毎日異なるホテルに泊まることを避けるため、バンドはいくつかの主要都市に滞在しつつ、飛行機で各公演に向かうという方法をとることにした。ツアーに同行していたジャーナリストのクリス・チャールズワースは、当時の様子についてこう語っている。「ライブが終わるやいなや、メンバーはローディーから渡された真っ赤なバスローブに着替えてた。アンコールにも満足しないオーディエンスが声援を送り続けている時、彼らは既に車で空港に向かっていた」飛行機での移動が好きではなかったメンバーたちは、20人乗りのビジネス用ジェット機、ファルコン20を窮屈に感じていた。ツアー前半戦における最後から2番目の公演後、乱気流に巻き込まれた飛行機があわよくば墜落という事態に見舞われた時、バンドはファルコン20を手放すことに決めた。ピーター・グラントは当時のツアーマネージャーだったリチャード・コールに、金に糸目をつけることなく、豪華で安全(それが優先順位だった)なジェット機を探すよう指示した。

スターシップの豪華さは無数のメディアによって報じられてきた。元々ユナイテッド航空が所有していたそのボーイング720Bは、70年代前半にティーンアイドルのボビー・シャーマンとマネージャーのウォード・シルベスターが購入し、20万ドル以上をかけて138席を誇るプライベートジェット(コールは同機を「空飛ぶジンの宮殿」と呼んだ)へと生まれ変わらせた。機体の端から端まで伸びたソファ、真鍮製のカウンターとエレクトリックオルガンを備えた豪華なバー、マルクス兄弟のコメディから最新のポルノ映画まで揃えたソニーのUマチック・ビデオプレーヤー、飾りの暖炉が設けられた接待用個室、そしてシャワーと白の毛皮で覆われたウォーターベッドを完備したプライベートスイート(シルベスターによると、離着陸時にはベッドは使用禁止と書いたプラカードが立てられていたという)等、その豪華絢爛さは語り草になっている。

スターシップのリース費用は3週間で3万ドルに上り、飛行時には1時間ごとに2500ドルの追加コストが発生した。機体に記された「Led Zeppellin」のロゴをはじめ、幾つかの重要なカスタマイズが施されたスターシップは、7月6日にシカゴのオヘア国際空港でバンドにお披露目された。その機体の前では、すぐそばに停めてあったヒュー・ヘフナーのプレイベートジェットがお粗末にさえ映ったという。「プライベートジェットを所有しているバンドは他にもいた」ペイジはそう語っている。「だがスターシップに比べれば、他はみんなおもちゃみたいなものだった」

スターシップは後にエルトン・ジョン、オールマン・ブラザーズ、ローリング・ストーンズ、ディープ・パープル、アリス・クーパー、ピーター・フランプトン等も使用しているが、その名前を知らしめたのがレッド・ツェッペリンの機内での放蕩エピソードの数々であったことは疑いない。取り巻きの大半は、ジョーンズが弾く『アイヴ・ガット・ア・ロンリー・バンチ・オブ・ココナッツ』を子守唄代わりに回転式アームチェアで眠っていたが、メンバーにより近い人々は機体後方にあったベッドルームでの「情事」が許されていた(スターシップの思い出について聞かれた際に、プラントは「乱気流の最中のオーラルセックス」と答えている)。食事と飲み物の提供係だったビアンカとスージーという2人のフライトアテンダントは、白い粉まみれの丸まった100ドル札の束をチップとして受け取っていたという。バンドメンバーの傍若無人ぶりを考えれば、それは妥当な手当だったに違いない。「カンザスシティの上空を飛んでいた時に、尿意を催したジョン・ボーナムが機体のドアを開けようとしたことがあった」スージーは2003年にニューヨーク・タイムズ紙にそう語っている。ボーナムは飛行機の運転に興味を示すようになり、実際にハンドルを握ったこともあったという。「ニューヨークからロサンゼルスまで、やつが始終運転したこともあった」グラントはかつてチャールズワースにそう語っている。「もちろん無免許だったがね」

10. 発売当初、ローリングストーン誌は『聖なる館』をこきおろした

1973年3月の発売当時、『聖なる館』は批評家たちを戸惑わせた。大半を占めた可もなく不可もないという評価の理由として、過去の作品と比べてロック色が薄れたことが挙げられた。Disc & Echo誌は同作をこう評している。「『ダンシング・デイズ』と『レイン・ソング』を除けば、プラントもペイジもいつもの精彩を欠いている。数回聴き終えた現時点でも、アルバムとしての一貫性に欠けるという印象は変わらない」バンドの熱烈な支持者として知られていたメロディー・メーカー誌のクリス・ウェルチでさえも、同作を否定した上でこう評している。「ツェッペリンは進むべき道を誤った」

同作を最も痛烈に批判したのは、他でもないローリングストーン誌だった。同誌の評論家たちはもともとバンドに対してやや否定的だったが、1973年6月7日に掲載されたレビューで、ゴードン・フレッチャーは同作をこき下ろした。「今年発表された作品の中でも、『聖なる館』は最も退屈で焦点のぼやけたアルバムだ」そう言い放った彼は、同作をプログレロックからの逸脱を試みた失敗作と位置付けた。さらに彼は、各メンバーを個別に攻撃している。「ジョン・ポール・ジョーンズとジョン・ボーナムのもたついた反復リズムに支えられながら、ジミー・ペイジは火の玉のようなギターリフを放つが、バックに流れるハトの鳴き声のような音と、あからさま過ぎて古臭いロックンロールにしか聞こえないキザなコーダが、何もかもを台無しにしてしまっている」中でも『クランジ』と『ディジャ・メイク・ハー』については、彼は「見え透いた模倣作」とした上で、「間違いなくバンド史上最低の駄作」と一刀両断してみせた。ロックにおけるトレンドからの逸脱を試みた野心的な楽曲が、彼の目にはペイジたちの「ソングライティング能力の欠如」の証として映った。「バンドがブルースを模倣することで脚光を浴びたことを考えれば、オリジナル曲がお粗末になることは容易に予想できた」バンドはブルースに基づいたロックというルーツに立ち返るべきだとした上で、彼はレビューをこう締めくくっている。「その日が来るまで、レッド・ツェペリンはリンプ・ブリンプ(ノロマな軟式飛行船)と名乗るべきだろう」

40年後の2014年に同作のデラックス版リイシューが発表された際には、ローリングストーン誌のコリー・グロウは異なる見方を示している。新たな方向性を模索するバンドの姿勢を讃えた上で、彼はこう述べている。「何十年にも渡ってラジオがクラシックロックに占有されていた当時、これらの楽曲の特異さは際立っていた」そのレビューはこう続く。「それでも今作が、より挑戦的な2枚組の5作目『フィジカル・グラフィティ』の前作にあたることを考えれば、『聖なる館』は変化を求めるバンドの真摯な姿を描き出した作品と位置付けられる」
Translated by Masaaki Yoshida

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