ニック・ロウ物語 パブロックの先駆者が振り返る「長く奇妙で最高のキャリア」

 
UKパンクを支えたプロデューサー/ソングライター

フォルクスワーゲンに戻り、ロウが携帯電話をチェックすると—-“ニコラスの電話”という言葉が車にあったBluetoothのスクリーンに現れる—-こう言う。「ピートに電話を掛けてもいいかな。状況をチェックしたいんだ。さて、彼女がこれをどう料理するか」。彼が言ったのは妻ペータ・ワディントンのこと。彼らは筆者をディナーに招待してくれていて、彼女はロウに買ってきてもらいたい品物のちょっとしたリストを作っていたのだ。

二人が出会ったのは2000年、サム・フィリップスのドキュメンタリーの上映会でのことだった。ワディントンは当時グラフィック・デザイナーで、「古い音楽が大好きだから、僕は彼女に適しているかもしれないね」とロウが言う。彼女はすぐさま「自分なら僕のレコード・ジャケットをもっと素晴らしくできたという生意気な発言」によって彼を否定し(辛辣だが真っ当だった)、二人はやがてデートをするようになった。ロイが2005年に生まれ、ロウは熟年の育児に完全に没頭していたようだった。当初は自分のメルセデスをステーションワゴンに交換しなければならないという屈辱に不満を漏らしていたのだが(ロウは前回の結婚で生まれたカーリーン・カーターとの娘ティファニーの養育にも手を貸していた。ちなみに彼女は父親の姓を名乗っている)。

帰宅すると、ロウはディナーの準備にとりかかる。ツナとケイパーとフレッシュ・トマトのパスタだ。彼の料理の腕前は素晴らしいが、沸騰したお湯の入った小さすぎるポットに、まるでそれらが焚き付けの束であるかのように、心ここにあらずといった様子でスパゲティを一人分ずつ入れ始めた時は、少し怪しい感じがした。ワディントンは魅力的なピクシーカットの髪に、生気に充ちた隙のない目をしていた。後に彼女は、デザインの仕事を辞めてルイジアナ州ユーニスの田舎に移住した突拍子もない話を聞かせてくれた—-スワンプ・ポップに長年魅了されていた彼女は、飛び込みで地元ラジオ局を訪れ、そこの困惑したマネージャーが最終的にはショックから立ち直り、彼女をディスク・ジョッキーとして雇った。彼女曰くこの行動が腰の重いロウの興味をそそり、ほどなく二人の真剣交際が始まったという。

さて、キッキンカウンターの椅子に腰掛けながら、少し心配そうな面持ちでロウを眺めていた彼女が言う。「ニック、ちゃんと見てる?」

私の方を振り返ったワディントンは、ちょうど2日後に行われるロイヤル・ウェディングを観るかどうか僕に尋ねてくる。「ニックはそんなにワクワクしていないのよ」彼女がニヤリとしながら言う。「彼にとってはあまりに非伝統的なのよ。」

ロウが肩をすくめる。彼は最近『ザ・クラウン』のシーズン1を遅ればせながら楽しんでいる。ワディントンが彼にNetflixでチェックするよう説き伏せたものだ。

将来有望なドラマー、ロイは階下でうろうろしている。彼はボサボサの赤髪で、13歳にしては驚くほど礼儀正しくて話し上手だった。英国の音楽誌『Uncut』がカウンターの上に置かれていた。ロイはそれを手にして言った。「ほら見て、ジョン・ライドンだ」。 表紙は初期パブリック・イメージ・リミテッドの古い写真だった。ロウはざっと目を通し、意地悪く眉をひそめて言う。「今の彼は全然違うよ」。彼はパスタに戻り、フォークでかき混ぜる。「僕はジョンとはずっと関わらないようにしてきた。僕からするとあまりに短気だった。最終的にどう落ち着くのか分からないんだ。ピストルズの他のメンバーはみんないい奴だったよ」。

ロイが訊ねる「彼はまだ生きてるの?」



70年代半ば、ロウは突然自分がUKパンク・シーン勃興の場にいることに気づいた。パブロック小ブームの時からのマネージャー・コンビ、ジェイク・リヴィエラとデイヴ・ロビンソンが自身のレーベルを始めようとした時のことだった。パンクの草分けとなるスティッフ・レコーズである。当時27歳のロウは、その場にいるには歳を取りすぎていると既に感じていた。「ダムドの連中は僕のことを“おじさん(uncle)”あるいは“おやじ(dad)”と呼んでいたんだ」彼は言う。ロビンソンがマネージメントをしていた、南東イングランド出身の当時は無名シンガーソングライターであったグレアム・パーカーが回想する。「デイヴの夢は、レーベルを始め、逮捕されないような奴らだけと契約することだった。ニック・ロウとかね。俺は思ったよ、『そんなの時間の無駄だ』って。ニックのソングライティングについて知っていることは、彼が『We Love You Bay City Rollers』という曲を書いたことぐらいだった。その後ブリンズリー・シュウォーツを聴いたけど、それは椅子に腰掛けたボブ・ディランみたいなサウンドだった。そして、ニックが注目すべきソングライターになるとは全く思えなかったんだ」。

パーカーが懐疑的であったにもかかわらず、スティッフはコステロやマッドネス、ザ・ポーグス、そしてダムドのキャリアをスタートさせるのだった(ロウはパーカーの2枚の傑作アルバムもプロデュースすることとなる)。「音楽紙でスティッフ・レコーズに関する記事を読んでみたら、ニックがこのレーベルの全てだった——彼らの第一の、そして唯一のアーティストであり、彼らが前面に打ち出すハウス・プロデューサーであり、ついには僕のプロデューサーにもなったんだ」。コステロがEメールで言及している。このレーベルの最初のシングルは、ロウによる「So It Goes」。言葉を尽くした感染性のあるこのスティーリー・ダンもどきは、1978年にリリースされた彼のデビュー・フルアルバム『Jesus of Cool』に収録されることとなる(この自嘲的なタイトルは、アメリカの聴衆にはあまりにエッジが効き過ぎていると判断され、米国では代わりに『Pure Pop for New People』というタイトルが採用された)。

ロウはまた、ウェールズ出身のシンガー/ギタリスト、デイヴ・エドモンズと共にパワーポップ・バンド、ロックパイルを結成。そして1979年、この2人は各々同時に素晴らしいソロ・アルバム、ロウは『Labour of Lust』を、エドモンズは『Repeat When Necessary』をリリースしたが、それらは実質的にロックパイルのアルバムであり、『Speakerboxx / The Love Below』(訳註:米国ヒップホップ・デュオ、アウトキャストの2003年作。各々のソロ作をまとめて2枚組としてリリースされた)の戦略を25年も先取りしていた。『Labour of Lust』には、ロウの米国での最大のヒット曲である、辛辣ながらも甘美なポップソング「Cruel to Be Kind」が収録されている。そのMVには、カーターとの結婚式の映像が使用されており、エドモンズがリムジン運転手役を演じている。




自身のための作曲に勤しむのみならず、ロウは需要の高いプロデューサーになっており、スタジオでの急場しのぎのアプローチから“Basher(とにかくやらせる人)”というニックネームを得ていた。「ニックのプロデュース・スタイル(これが正しい表現かどうか分からないけど、僕には比較のしようがないので)は瞬間瞬間の大きな熱狂を曝け出すというもので、我々が何を演奏しようとそれが絶対的な“正解”であるという確信に満ちているように思えたよ」コステロが記している。さらには、プロデューサーである以上に、ロウは「常にソングライターであり、僕も多くのヒントを得てきた——彼の曲『When I Write the Book』と僕の『Everyday I Write the Book』みたいにね」。

Translated by Masao Ishikawa

 
 
 
 

RECOMMENDEDおすすめの記事


 

RELATED関連する記事

 

MOST VIEWED人気の記事

 

Current ISSUE