ニック・ロウ物語 パブロックの先駆者が振り返る「長く奇妙で最高のキャリア」

 
「洗練されたシンガーソングライター」への変貌

20年後、ロウは同じ西ロンドンのテラスハウスのドアを開け、新たな訪問者を迎えた。ラフな格好の若いスタッフの予想どおりに、ロウは、今や60を通り越して70に近いが(編注:2023年時点で74歳)、素晴らしい見栄えである。高身長で、スリムで、小綺麗で、白いドレスシャツに裾を折り返した濃紺のジーンズを合わせ、茶色いコーデュロイのジャケットを羽織り、バディ・ホリーのような大きめの黒縁メガネをかけるという装い。今や完全に白くなった髪は、威厳のある解釈を施したオールバックへと流されている。

ロウはブレントフォードに住んでいる。かつてナイロン工場で知られた退屈な街だ。彼の家は、曰く、それほど古くはないとのことだが、彼は英国の基準で言っているのだ(建てられたのは1805年のこと)。近年ロウは、数ブロック先の別のテラスハウスで2人目の夫人ペータ・ワディントンと10代の息子ロイと共に暮らしている。驚くべき幸運に恵まれ、カーティス・スタイガースによる「(What’s So Funny ‘Bout) Peace, Love and Understanding」のカバーが、ホイットニー・ヒューストンのおかげでおよそ4000万枚を売り上げた1992年公開の映画『ボディガード』サウンドトラックに収録され、ちょうどその活動がより商業的でない方向に向かっていたロウに、思いがけない作詞作曲印税をもたらした。それにより彼の家族は快適な生活を維持することができた。

ロウは以前の住居を仕事場のようなものとして使用している。それは、ぎゅうぎゅう詰めの本棚(カール・マルクス伝記、ボクシング歴史図鑑、ウィリー・ディクソン『I Am the Blues』、ハンス・ファラダの『The Drinkers』といった小説など)、ジョニー・キャッシュのデビュー・アルバム(「ニックへ」というサインが書かれている)、洒落たジンクトップのダイニング・テーブルなど、味わい深くリフォームされた独身生活スタイルで彩られていた。エゴン・シーレを連想させるようなトップレス女性の不気味な絵画があり、その真向かいには、鈴を首に巻いた可愛い小型犬の絵が掲げられている。

『Party of One』以降のロウの音楽が「本当にマジでキテいる」かどうかは、「キテいる」の定義による部分があるだろう。インディ・レーベルに戻っていたロウは、新たなヒット・シングルを放つことはなかったゆえに、商業的な意味では“ノー”だ。だが、1994年の優れた作品『The Impossible Bird』を起点に、彼の技巧はアルバムごとに熟練度を増していった。その音楽は無駄が削ぎ落とされ、しばしばアコースティックで、彼がブリンズリー・シュウォーツで最初に探究したアメリカのルーツ音楽を含んでいた。BBCのインタビューで示された計画に驚くほどに忠実に、彼はポップスター予備軍から、控えめながらもより洗練された作風のシンガーソングライターへと滑らかに変貌したのだ。彼が新たに作った曲には、賛美歌のようなバラード(「Shelley My Love」)、ランディ・ニューマン風の辛辣な人物描写(コーラス部分に“これで遠慮なく彼女の心を傷つけることができる”という卑劣などんでん返しがある「I Trainde Her to Love Me」)、吟遊詩人のフォーク(「Indian Queens」)、そしてブレントフォード経由のメンフィス・ソウル(「High on a Hilltop」)などがあり、彼はそれらをあたかも既にスタンダードになっているかのようにクルーン唱法で歌い、聴き手に簡単にはそのルーツを特定をできないようにしている。


2021年の弾き語りライブ、2001年作『The Convincer』収録曲「Lately I've Let Things Slide」を披露

私がロウの家にほんの数分ほど滞在したところで、突然彼が言う。「犬の散歩に行かなきゃいけないんだ。君も来るかい?」。我々はフォルクスワーゲン・ゴルフに乗り込み、彼のグレーと白のホイッペット犬ラリーが後部座席で丸くなると、近隣のガナーズベリー・パークへと車を走らせる。かつてロスチャイルド家の私有地だった場所だ。どんよりした曇り空で、ロウは傘を携帯しており、彼の首に犬の首輪が会議出席者の名札のように吊り下げられているのを除いては、かなり英国紳士に見える。彼は、目の前でラリーが一面をタンポポに覆われた芝生の上で飛び跳ねるのを眺めると、やがて素っ気ない口調で述べる。「ホイッペット犬の良いところは一つか二つある。まずは情が深い。でも愛情に飢えているわけではない。そして、とても速い——ご覧のとおり、ネズミ捕りなんだ——そして、首輪を外すと駆け回ることができる。だから、一日一回散歩に連れて行けばいいだけなんだ」。

池に沿った道を進みながら、ロウはフォリーを指し示す。公園が私有地であった時代に建てられた模擬天守のことだ。そして、キャリアにおいて第2章と彼が呼ぶものへと転換していったことを話し出す。だが、すぐさま「キャリア」という言葉に対してクスクスと笑い出す。ロウは、いい形で進化を遂げた年長アーティストたちのことが念頭にあった。ボブ・ディランやポール・サイモンといった人たちのことだ。彼はそうしことをやりたいと思っていた。「60代へと押し進めてくれて、その後もずっとできる」ような活動を見つけ出したいと。「僕はお金持ちにはならないだろうけど、良いレコードを作ることはできるだろう。独自の道を歩みたいんだ」と。はっきりしている唯一のことは、懐メロ・ツアーで終わりたくないということだった。70年代のやんちゃな自分の“少し頭の薄くなったバージョン”を演じ、その一方で聴衆が「あぁ、なんとバカげたことか!」とクスクス笑うような……。ロウは大好きなルーツ・ミュージックのことを考え始めた。「でも、彼らの世界で演奏することにも興味はなかったよ」彼は言う。「真面目さは敵なんだ」。


1977年のニック・ロウ。70年代半ば、スティッフ・レコーズと契約すると、彼は英国パンク・シーンの重要人物となった(Photo by DICKSON/REX SHUTTERSTOCK)

ロウの最新リリースは、不真面目であることの重要性を示すケーススタディである。それは4曲入りEPで、彼にとって5年ぶりの新曲となる—-つまりは大事件である。だが、近年のロウのバックを務めるグループは、ロス・ストレイトジャケッツというサーフ・ギター・バンドで、メンバー全員が演奏時にルチャリブレの覆面を被っている。ロウとストレイトジャケッツは、マネージャー(高名な音楽ジャーナリスト、ピーター・グラルニックの息子であるジェイク・グラルニック)とレコード・レーベル(ノース・カロライナを拠点とするインディ・レーベルYep Roc)が同じであったゆえに、第一印象ほどのおかしな組み合わせではない。だが、それでもかなりおかしい。ところで、ロウがツアーをする際、ステージ上では彼がメキシカン・プロレスのマスクを被っていない唯一の人物となり、それは、生涯に亘る積極果敢な真面目さの拒絶を知らしめる方法の一つであることは間違いなく、そのことにより、ニュージャージー州ジャージーシティのホワイト・イーグル・ホールで私の観たショウが、『ツイン・ピークス』のロードハウス・バーにいるかのような錯覚をしばしば起こさせたのだった。

「それがニックという男のカッコいいところなんだ。こうしたことも厭わないというところがね」。ロス・ストレイトジャケッツのギタリストの一翼を担い、グループの実質的なリーダーでもあるエディ・エンジェルが言う。「僕らは何も失うものはなかった。でも彼は違った。彼には名声があったんだ!」


2019年のライブ映像、ロス・ストレイトジャケッツと共演

Translated by Masao Ishikawa

 
 
 
 

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