追悼ロビー・ロバートソン ザ・バンドやディランとの秘話、音楽的成熟の裏側を明かす

ツアーからの離脱、パンク・ロックへの見解

―よく知られるようにあなたはツアーから引退しましたが、そのことに後悔はないですか?

RR:そう思ったことは一度もない。『ザ・ラスト・ワルツ』という映画を作って、そこでそれについて言明しているよ。もう何年もツアーを行った。実に驚くべき環境でやってきた。ザ・ホークスにザ・バンドと、僕は想像もできないような場所で演奏したんだ。僕らが活動できたのは本当にラッキーだったし、世界最大規模のコンサートも行った。だから、そこから見たいと思ったあらゆるものを見てきたし、16年以上もそれをやった後にその場所に辿り着いた。僕は芝居をしているような感覚を抱いたよ。50年も『王様と私』で(王様役を)演じてきたユル・ブリンナーのような気分だった。僕が言っているのは、同じ曲、同じ歌詞を毎晩、僕は出ていってそれをやる。僕はどう対処すればいいか分からない試練にとにかく飢えていたんだ。

学びたかった。成長し続けたかったんだ。というのも、僕は若い時からツアーに出ていたからね。僕は常にこうした飢えを、より吸収し、創造性を育むために活用した。だから僕は、一連の映画でマーティン・スコセッシやその他の人たちと共同作業を行ったんだ。ザ・バンド以降の活動をしていた時には、朝、目が覚めて「なんてことだ、このやり方が分からない。なんとかしなければ」と思うことが何度もあった。それは、やりがいを感じさせる感情であり、僕に刺激を与えるものだ。同じことを何度も何度も繰り返すよりもね。そして、レコードが作りたくなったらレコードを作ればいい。脇道に逸れて「そのために(ネイティヴ・アメリカンの)遺産を再び訪れ、誰も聞いたことがないけど非凡な才能を有していると思われるアーティストと共演して、一緒に何かを掘り下げよう」と言うこともできる。思うに、正しかろうが間違っていようが、僕はそれを手に入れていたんだ。他にも様々な形で下積みを経験してきたから、自分の成長を実感させてくれるようなこともできたのさ。

―大々的に行われたロックの殿堂入り記念コンサートの直前に、「ステージに飛び入りする計画はあるか」とあなたに訊ねたのを覚えていますが、あなたはそれを考えもしていませんでした。あなたはツアーはおろか、人前で演奏することへの欲求も無いかのようですが。

RR:人前で演奏したいという欲求がある人々を心から敬服するよ。僕にもそれが十分にあるけど、別の筋肉を使う必要があったんだ。脳の別の部分を使う必要性を感じていて、この渇望をみんなの前に立って誇示しようとは思わなかった。これまでとは別のことがやりたかったんだ。そして僕はそうした。「音楽を作ろう、そしてツアーに出掛けよう、そしてまた音楽を作ってツアーに出掛けて」という風に人生が回っている人をたくさん知っている。僕もそういうことをたくさんやってきたし、ある時点で、なんというか、どうやら年を取ってしまったんだ。生業としては素晴らしいものだよ。人前に出ていって、みんなが応援してくれて、そうすることで報酬がもらえる。驚くべきことさ。先ほど言ったように、それには心から敬意を表するけど、なんだろう、今は違う欲求があるんだ。

―アルバム『ブロンド・オン・ブロンド』制作の初期段階では、ザ・ホークスでレコーディングする試みがありました。最終的にディランはナッシュヴィルに行き、その際あなただけを連れ出しました。ところで、その初期セッションのことは覚えていますか?

RR:僕らはそれをあのアルバムの始まりだとは捉えていなかったよ。ボブは曲をほとんど仕上げていなかった。2曲だけだったと思う。一つは「Please Crawl Out Your Window」という曲。もう一つの曲名は忘れてしまった。そして僕らはスタジオに入って「Crawl Out Your Window」を録音し、たしかもう一曲も録音したと思う。

―いくつかのスタジオ集を参照すると、あなたは「I Wanna Be Your Lover」を何テイクも録音しています。また「Visions of Johanna」の初期別バージョンもありました。

RR:あぁ、そうかも。でも、僕らが気付いたのは、この曲について「あぁ、この人は随分と独りで演奏してきたんだな」ということだった。スタジオ・ミュージシャンとスタジオに入る時、彼らのやり方はこうだ。スタジオに入ると、彼らは自分が何をすべきか15分で把握し、その中で細かいパートを作り出そうと試みる。でも僕らは違う。なので、ボブと初めてスタジオに入った時、そこで彼がただ曲を演奏し、人々がそれに付いていっていることがよく分かったんだ。そして僕らは「いや、僕らはバンドなんだ。5人のメンバーがいて、5人がそれぞれ何をすべきか理解する必要がある」といった感じだった。僕らは雇われのスタジオ・ミュージシャンではない。僕ら自身はその正反対だと考えているよ。

『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』『ザ・バンド』『ステージ・フライト』といったアルバムを作って初めて、僕らの制作過程がどういうものか本当に理解されるようになったんだ。そして僕らのやり方は、スタジオ・ミュージシャンのやり方とは違うし、ボブが求めていたものとも違った。最初にボブが出来上がったばかりのレコードをいくつか聴かせてくれた時、ミュージシャンたちが次の曲で一体何が起こるのかを必死で追っているように聴こえたんだ。一人であればそれでも構わないだろう。ナッシュヴィルの面々とセッションした時は、ボブが曲を演奏し、彼らは誰がそのトラックで演奏するか即座に決めていた。そして「あぁ、僕がこことあそこでちょっとしたメロディを弾こう」というのが彼らの仕事だった。彼らはそれができた。彼らはスタジオ・ミュージシャンだから即座に対応することができたんだ。

それは僕らにはピンと来なかった。ボブもそれが分かっていたんだ。僕が彼にこんな風に言っていたからね「ここで僕らが何をすべきか理解しなければならない。どこで始まってどこで終わるのかも知らずに慌ててやるのは良くないことだ。一緒に演奏するための言語をみんなで決めなきゃいけないからね」。ライブで演奏する時は、僕らが曲のアレンジを手掛け、自分たちが何をするかを決めていた。だから、それは良かったんだけど、これはまた別の話だった。そんな時、彼が「ナッシュヴィルに行こうと思うんだけど、君を連れて行きたい」と言ったんだ。僕は以前ナッシュヴルに行ったことがあったけど、全く歓迎されなかった。彼らは排他的だった——極めて有能な人たちの排他的集団だ。そして、このクラブは他のメンバーを必要としていなかったんだ。









―1974年、あなた方はよく知られるようにボブと再びツアーに出ていて、それはライブ・アルバム『偉大なる復活』(原題:Before the Flood)にも収められています。人々は、アレンジに宿るエネルギーに覚醒剤の影響のようなものを嗅ぎ取っていたように思います。これは間違っていますか? あるいは、それは当時の状況を垣間見せるもので、あのツアーで演奏された曲にとてつもないエネルギーが溢れるようになっていたということですか?

RR:1966年に僕らが演奏した時、ボブは、当然ながら、アンフェタミンの力を借りてステージをこなしていて、それは彼に大きな原動力を与えていたよ。僕らは「うぁ、そういうことをやる人もいれば、やらない人もいるんだな」と思った。僕らは既にロカビリーの世界でそういったことを目撃していたんだ。みんなベンゼドリンやアンフェタミンなんかをやっていて、そうした時期を経験済みだった。1974年のツアーが始まる頃には、ボブは全く別の段階にいて、スピードなどは一切使用していなかったよ。

僕らがやっていたことは、そして、おそらくあの音楽のエネルギーやパワーの要因となっていたのは、僕らが世界中でブーイングを受けてきた環境に舞い戻っていたことだ。僕らは死ぬほどブーイングを受けてきた。そして、僕らは戻ってきて、みんな「素晴らしい。いつだって素晴らしかった」というように振る舞っていた。でも、どんな状況だったかは忘れてはいなかったし、僕らの演奏にはある種の復讐の要素があったんだ。パワーと自信を剥き出しにして音楽を演奏することと関係があると思う。というより、それは僕らが体験したエネルギーと高揚だったんじゃないかな。それは、僕らが何年か前にやったこととそれほど変わらなかった。8年のギャップはあったけど、音楽に宿る情熱はそれほど変わっていなかったんだ。でも今や、僕らは好きなだけハードに演奏できるし、それに文句を言おうという人は誰もいないんだ。

―想像するに、あなたが初めてパンク・ロックを聴いた時、「僕らは1966年にライブでそういうことをやっていた」と思ったんじゃないでしょうか?

RR:そうした部分はあったかな。そして、多くのパンク・ロックについて、「あぁ、僕らにはこんなビンタが必要なのか」と思ったよ。新鮮だよね。僕らは、音楽が真に時代の声となった時期を過ごしてきたんだ。それは重い責任であり、国中の、世界中の若者の共同体や組織にとって極めて重要なことだった。でも、その後は? 何が起こった? パンク・ロックは「団結などどうでもいい(笑)。何にも興味がない。俺たちはただお前の靴に小便をかけたいだけだ」と宣言している。僕は「分かった、これは新たな受難劇だ」と思った。こうした連中の一部は高く評価したよ。エルヴィス・コステロは素晴らしいソングライターだった。ザ・クラッシュ? 最高だよ。そしてラモーンズは、その音楽的なシンプルさが、ロニー・ホーキンスと活動していた僕の駆け出しの頃を思い出させてくれた。ある種の純粋さがあった時代さ。中には耳障りな音楽に聴こえるものもあったけど、それは意図したものだったと思う。パンクに対して受け入れられない部分はそれほどなかったよ。唯一の不満は、スコセッシに関することだ。彼はパンクが大好きで、大音量で鳴らしていたんだ。僕が誰かに「お願いだから音量を下げてくれないか?」と頼んだのは初めてのことだった。

―「It Makes No Difference」は、あなたが書いた曲の中で私の一番のお気に入りですが、これはエディ・ヴェダー(パール・ジャム)が最も好きな曲でもあります。あの曲の実際の作曲作業について何か思い出すことはありますか?

あの時は、リック(・ダンコ)が完璧に歌える曲を書きたくて、彼の声が到達できるパワフルな領域を見つけようとしていたんだ。それに、その上で演じたくなるようなものを書きたかった。曲を書いて、特徴的なギター・プレイを入れて、ガースのサックスも入れて。頭の中で全体像を描いていたよ。これもまたこのグループでの、このクラブでの僕のやるべきことであり、僕の役目はこれらの役者が演じる素材を書くことだったんだ。

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From Rolling Stone US.

Translated by Masao Ishikawa

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