追悼ロビー・ロバートソン ザ・バンドやディランとの秘話、音楽的成熟の裏側を明かす

ロビー・ロバートソン(Photo by SACHA LECCA FOR ROLLING STONE)

8月9日に亡くなったロビー・ロバートソン(Robbie Robertson)を追悼。ザ・バンド(The Band)の今は亡きリーダーがローリングストーン誌との未公開インタビューで、『地下室』(原題:The Basement Tapes)から『ザ・ラスト・ワルツ』、そしてその先まで音楽人生を振り返った。

2020年6月、パンデミックが激しさを増す中、ロビー・ロバートソンは、ザ・バンドの偉大なヒット曲の制作秘話からボブ・ディランとの共演作品に至るまで、グループでのキャリアをじっくりと振り返った。ドキュメンタリー映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』の公開によって、彼は過去へと想いを巡らせることとなり、バンドメイトのリック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、そしてリヴォン・ヘルムと共に作った音楽について、新たな詳細を語る心境にさせたのだ。今月舞い込んできたロバートソンの80歳での訃報を受け、このたび初公開となるインタビューのテキスト全編をお届けする。


—ザ・バンドの歴史は成功物語と見ることができると思います。あなたは永遠の命を宿す驚くべきアルバムを作りました。と同時に、いくつかの点で悲劇と見做すこともできるでしょう。なぜなら『ザ・ラスト・ワルツ』以降、あなたがバンドに戻ることができなかったからです。さらには、恨みつらみもあれば、悲劇的な死や晩年を迎えたメンバーもいました。では、あなたはどちらの視点で捉えていますか?

ロビー・ロバートソン(以下、RR):僕らのこの兄弟関係の中で、既に3人がこの世にいないのはとても悲しいことだよ。だけど『ザ・ラスト・ワルツ』以降は、みんなそれぞれの目的があったんだ。それぞれ自力で発見したいことがね。僕らは「よし、それぞれのことをやって、その後また戻ってこよう。みんなで集まって、これまで以上に素晴らしい音楽を作ろう」って感じだったんだ。それは素晴らしいことだと感じられたし、それがそんな風に僕らを心の絆で結び付けていた。

時間の経過と共に、ある時点でみんな戻って来るのを忘れてしまったと感じられたんだ。みんな他のことを引き続きやっていたよ。そして思うに、僕らが元に戻る道筋は事実上無くなってしまったんだ。リック、リチャード、ガース、そして僕にはその後のストーリーがあった……そこには恨みつらみは全くなかったよ。僕らは最高の兄弟の絆で結ばれていて、それが本当に嬉しかったんだ。そして、その数年後に彼らがいくつかのギグを一緒にやろうと決めたのも、それが彼らの身体に染み付いているからだ。僕もそれは心から理解できたよ。

そして、彼らは僕に連絡してきてこう言った「僕らと一緒にやる?」。そこで僕は言った「遠慮しておくよ。今関心があるのは制作作業で、もしも僕らが新たな音楽を作るとしても、最もそれを望んでいるのは僕なんだ。でも、ツアー生活には戻りたくないんだよ」。すると彼らは言った。「“ザ・バンド”という名前を使ってもいい?」。僕は言った。「もちろんいいよ。僕は、自分のやるべきことをやっている、それで生計を立てたりとかそういったことをしている人たちの邪魔をしたくないんだ」。そして彼らはそうしたわけだけど、それが僕から見たストーリーだね。

このドキュメンタリー映画が大いに着想源とした自伝『ロビー・ロバートソン自伝:ザ・バンドの青春』(原題:Testimony)では、まさに僕の視点や、これをどのように回想し、どのように捉えているかが記されている。僕から見れば、恨みなどは一切無く、あるのは僕らが共に過ごした驚くべき時間への感謝の気持ちだけだ。



―ところで、リヴォンが自伝やインタヴューで吐露した不満の大半は、楽曲をアレンジしたことに対してもっと作曲クレジットされるべきだという彼の感情がもとになっています。彼は、自分が曲を書いたと実際に言うこともあれば、また別の場合には書いていないと言うこともありました。とはいえ総じて言えば、アレンジに対して作曲クレジットされてしかるべきだと感じているように思えます。その話は当時持ち出されていたのですか? それとも後年になってからですか?

RR:全くなかった。話し合われたことは一度もなかったんだ。僕がこれに関してどれだけ骨を折ったかはみんな知っているし、それは責任を、あるいは他人がやるべき範疇を、遥かに超えていた。でも、それが僕の仕事だと感じていたんだ。この件に関して僕が実際にできることはそれぐらいだった。それに、世の中そういうものだよ。例えば、リンゴ・スターは(多くの)曲を書いていない。チャーリー・ワッツは曲を書いていない。ああいった人たちが出版権を他のメンバーと分け合っていたことはないはずだ。僕はそうしたけどね。

だから、僕は寛容に受け入れるよう強く意識していたし、僕が作曲していた時にそこにいたというだけでリヴォンに作曲クレジットを与えていたんだ。なぜなら、兄弟の絆をとても大切にしていたからね。全員が関わることを大切にしていたし、彼やその他のメンバーにもできるだけ曲を書くよう働きかけていたんだ。だけど、最初期には僕が唯一のソングライターで、最後も曲を書くのは僕だけだった。それはどうしようもないことだ。僕には変えられないんだ。

晩年のリヴォンが辛い時を過ごしていたことは理解しているし、ゆえに僕は何も語らなかった。彼は葛藤していたけど、現状に対する責任を他人に負わせるのがいつも上手かったんだ。彼はみんなを片っ端から巻き込んでいったけど、最後に残ったのが僕だった。そして、彼が何を言おうが、自分の視点でどんな風に考えようが驚かなかったけど、彼は一つの角度からしか捉えなかった。そして僕は自伝を書き、僕のアングルからそれを捉えたんだ。



―彼は「The Night They Drove Dixie Down」をあなたと共作したと言っていますが、一方あなたの自伝では、彼はあなたを図書館まで車で送り、基本的にはそれだけだったと記されています。

RR:そのとおりだ。そして彼は、この曲でエイブラハム・リンカーンという名前を出さないよう僕に言ったんだ。それだけさ。

―リヴォンの声があの曲に見事にハマっているのは明らかで、それは他の様々なメンバーが歌う他の曲にも言えることです。あなたは、どの程度特定のメンバーに当て書きをしていたのでしょうか? あるいは、曲を割り振るようなことをしていたのでしょうか?

RR:まさにそんな風に捉えていたよ。ある意味、劇団のような感覚だった。いろんなストーリーを採用して、いろんな映像を撮る。ジョン・フォードやイングマール・ベイルマンが同じ人を多くの映画で使っていたような感じだ。この映画では、この役者が医者を演じ、あの映画では同じ役者が聖職者を演じていた。僕もそんな風にしたんだ。僕は曲を特定のメンバーに歌わせるために書いた。リヴォンは僕の最も近しい兄弟だったから、とりわけ頑張ったよ。彼の楽器のことも分かっていた。彼の技量についても分かっていた。僕は彼が歌うのにぴったりの曲を書こうとしたんだ。そして、何度かは上手くいっていたと思うよ。

Translated by Masao Ishikawa

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