LOW IQ 01の青春時代「THE BLUE HERTS解散、AIR JAM夜明け前の1995年」

ー話はガラッと変わりますが、野球で言うと野茂が新人王を獲得した年でもあります。

日本人がピッチャーとして大リーグで活躍することは、まさに後のハイスタの活躍に繋がるというか。日本人が海外に行って向こうのバンドと一緒にライブをやるのに近いイメージを持った。当時、ダボダボのXXLぐらいのドジャース NOMO 16って書いてあるスウェット着てたしね(笑)。

ーこの頃からPHSのサービスも開始されました。

「ピッチ」って呼ばれてたやつですね。俺はピッチ持ってなくて最初から携帯で。TU-KAの本当に子機みたいなやつを使っていた。

ー携帯を持つようになって生活や音楽活動に変化はありました?

飲みに行く場所とか、集合しやすくなったかな。もちろんいつものたまり場はあったけど、携帯があると、より集まりやすいよね。

ーちなみに1995年はイチロー選手がオリックスで活躍してました。

オリックスが地元で「がんばろう神戸」をやっていて、イチローってこの時からすごいなって思う。俗に言うスターの「持ってる」ってやつだよね。本当にそこで頑張って優勝しちゃうんだから。

ーファッション分野だといかがでしょう?

この頃はもうヒップホップ、B-BOYじゃないかな。みんなダボダボのオーバーサイズの服だったね。俺はVANSとか履かないでTimberlandとか履いてた。みんな結構ニューヨークシティーハードコアの格好で、この頃は逆にステージで一番裸になってたよね(笑)。ステージに人が上がってきて、上半身裸でパンツも腰履きで、みんなダイブしてたイメージがある。

ー般的にはプラダが流行したみたいですけど、どうです?

小沢健二くんが「痛快ウキウキ通り」で「プラダの靴がほしいの~♪」って歌ってて、まさしくその時代。この曲では小沢くんのバックバンドとして、民放テレビに何回か出た。『HEY!HEY!HEY!』、『FAN』、他TBSとかかな。あと『ミュージック・ステーション』。だから、どこのバンドよりもMステには早く出てたんです(笑)。後ろの端っこの方で当て振りだったのに、「俺が身内の中で1番最初にミュージック・ステーションに出た」っていつも冗談で言ってるよ(笑)。



ー小沢さんのバックバンドをやるきっかけはなんだったんですか?

アクロバットバンチのパーカッションのオイちゃんが、今もやってるんだけど小沢くんのライブツアーメンバーで。それで「テレビ用におもしろい人集めてきてよ」ってなったらしく、「いっちゃんテレビ出ない?」って誘ってくれて、「出る!」ってなった。それこそ、その時のファッションのことはよく覚えてる。小沢くんのバックなのに黒の革のダウンジャケットを着て、黒のダボダボのパンツ履いて、FILAのスニーカーに丸坊主(笑)。ガルニのエイジの家でその日のMステを録画してもらってて、生放送が終わった瞬間にバックバンドのメンバーでタクシーに乗って、「エイジの家で今日のMステ観よう!」ってすぐ観たな。ダウンジャケットが大流行な年ですよ。そういった意味ではニューヨークカジュアルがヒップホップなんじゃないのかなって思うんだよね。バンドマンがつけないような18金とかのネックレスもつけてたし。

ーダウンジャケットでも、黒いダウンジャケットが特に流行りましたよね。

当時はノースフェイスがスタンダードだったんじゃないかな。横山健は当時、50ccバイクのゴリラに乗ってて、どこへ行く時にもノースフェイスのダウン着てたよね(笑)。

Rolling Stone Japan 編集部

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