男社会の音楽ジャーナリズムを解体せよ 差別と闘い続ける女性たちの提言

1975年、ローリングストーン誌を読むパーカッショニストのオリー・ブラウン(Photo by CHRISTOPHER SIMON SYKES/HULTON ARCHIVE/GETTY IMAGES)

音楽ジャーナリズムの世界で活躍する5人の女性が、問題だらけの過去を振り返りながら、より良い未来への展望を語った。

筆者(ローリングストーン誌のシニアニュースエディター、アレサ・レガスピ)はアジア系アメリカ人の音楽ジャーナリストとして、次のことをはっきり言わせてもらいたい。昔からロックンロールというものは、言語道断な人種差別や女性蔑視と切っても切れない関係にあった。黒人アーティストの楽曲を盗用した音楽業界関係者から、フィーチャーするアーティストの選択を一身に担ってきたメディア業界の上層部にいたるまで、常にロックの世界を牛耳ってきたのは、男たち——それも白人の男たちだった。

ローリングストーン誌(以下、RS誌)は、もっとも影響力のある老舗音楽雑誌のひとつだ。それを1967年から2018年にかけて(共同創刊者として)率いたのがヤン・ウェナーである。バリー・クレイマーが1969年に創刊した『クリーム』は、クレイマーが亡くなる1981年まで続いた。成人誌『ペントハウス』の創刊者として知られるボブ・グッチョーネの長男ボブ・グッチョーネ・ジュニアが立ち上げた『スピン』は、1985年から1997年まで発行された。ウェナー、クレイマー、グッチョーネ・ジュニア……歴史ある音楽雑誌の創刊者は、揃いも揃って白人男性である。そのせいだろうか、ウェナーが自著『The Masters』に女性と有色人種のアーティストを取り上げなかった理由を「取り上げられた白人の男性アーティストほど、哲学的に雄弁ではないから」と答えたとき、業界関係者の多くは、いまさら驚きもしなかった。


アレサ・レガスピ(Photo by ANDY ARGYRAKIS)

無意識のバイアスというものは、いまだに存在する。音楽ジャーナリズムにおいても差別・偏見といった問題は根が深く、多様性の実現からはまだまだ遠い。オンラインメディアのDIGIDAYが今年公表したレポートによれば、アメリカの一部の大手出版社は、いまだに白人男性を積極的に採用している。グローバルレベルで見ても、240のメディアブランドで働く180名のトップエディターのうち、女性が占める割合は22%に過ぎないことがロイタージャーナリズム研究所によって明らかになった。

音楽雑誌は、何十年も前から白人男性の偏狭な視野にとらわれ続けてきた。だが、その背後で女性やBIPOC(黒人、先住民、有色人種の略称)がこの世界を人知れず支えてきたことも忘れてはいけない。

それどころか、女性たちはパラダイムを変えようと1960年代後半から奮闘していた。作家/ロック評論家のジェシカ・ホッパーがヴァニティ・フェア誌の中で指摘したように、1967年からの10年にかけて、RS誌では数多くの女性ジャーナリストが活躍していた。1972年のデトロイトでは、ジャーナリストのヤーン・ユヘルスキをはじめとする女性ジャーナリストのおかげで、クリーム誌は不動の地位を獲得した。さらにユヘルスキは、2022年に創刊者バリー・クレイマーの息子J・J・クレイマーとともに同誌を復刊させた。

90年代の東海岸では、ジャーナリストのカンディア・クレイジー・ホースがフェミニストならではの繊細な感受性を発揮し、サザン・ロック(ブルースやカントリーなどをベースとした米南部のロック)とそのルーツであるアフリカン・アメリカン音楽に関する記事を執筆していた。2004年には、『Rip It Up: The Black Experience in Rock ’n’ Roll』と題したアンソロジーを上梓している。カントリーミュージシャンとしても活躍するクレイジー・ホースは、「ネイティブ・アメリカーナ」と自ら命名したジャンルの音楽の創り手でもある。

90年代後半の西海岸では、作家でイェール大学教授のダフネ・ブルックスが、後に音楽評論家と音楽ジャーナリストにとって欠かすことができない毎年恒例イベントとなる「ポップ・コン(Pop Conference)」を友人と立ち上げた。2021年には、『Liner Notes for the Revolution: The Intellectual Life of Black Feminist Sound』を上梓している。

フリーのジャーナリストとして2014年にRS誌に初寄稿したブリタニー・スパノスは、2019年にシニアライターに昇格した。2017年のカーディ・B特集をはじめ、斬新なカバーストーリーを世に送り出してきたスパノスのおかげでRS誌は、新進気鋭の若いアーティストを積極的に起用するようになった。

フィリピン系移民の第一世代である筆者にとって、音楽は家族とコミュニケーションを取るための言語のようなものだった。思春期を迎えてからは、音楽は保守的な両親に反抗するための手段となった。それだけでなく、音楽は自由と居場所を与えてくれた。両親に内緒で訪れるレコードショップやライブ会場で出会う人々が私のコミュニティになった。雑誌の表紙や記事の中で、私のようなアジア系アメリカ人のアーティストにお目にかかることはなかった。それどころか、執筆者にもそんな人はいない。それでも私は、音楽ジャーナリストになりたいと思った。夢を叶えるチャンスが訪れたのは、『イリノイ・エンターテイナー』という地元紙の史上初の女性編集長に就任したときだった。2005年には、シカゴ・トリビューン紙の音楽評論チームのメンバーに抜擢された。当時のメンバーのうち、女性は私を含む2名だけで(先輩にあたる故クリッシー・ディキンスンは、主にカントリーミュージックを担当していた)、有色人種は私だけだった。そのかたわら、いまは亡き『URシカゴ』というZINEの「ウーマン・ロック」というコラムの責任者も務めた。取材対象者や同僚から受けた性差別から、女性社員には特定の仕事しかまわってこないという状況——なぜなら、仕事の決定権は男性社員が握っていたから——との闘いにいたるまで、ここまでの道のりは、決して楽なものではなかった(それどころか、いまだに思い出すのも辛いくらいだ)。だが、私には仲間やメンターと呼べる人々がいた。そこにはもちろん、男性も含まれる。こうした人々の支えがなければ、いまの私は存在しない。

男社会と言われる音楽ジャーナリズムの世界においても、自分の力で道を切り拓き、多様性に寄与してきた女性は、ほかにもたくさんいる。優秀な若い女性やBIPOCの新規参入も後を絶たない。本当は全員の名前を挙げたいところだが、ひとまずここでは、ダフネ・ブルックス、ヤーン・ユヘルスキ、カンディア・クレイジー・ホース、ブリタニー・スパノスのストーリーと洞察をお届けしよう。

Translated by Shoko Natori

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