フジロックがグラストンベリーに学んだ「フェスのあるべき姿」 アジカン後藤正文が花房浩一に訊く

フェスと政治が切り離せない理由

―花房さんが今聞かせてくれた1982年のエピソードは、今日のグラストンベリーが環境問題に配慮し、フェスの収益を慈善団体に寄付し、労働格差や人種/ジェンダー差別などの社会問題を訴えるアートを会場中に飾っていることにも通じる話ですよね。そういったことへの問題意識を、出演するミュージシャン側も当時から共有していると。

花房:そうですね。でもかたや当時、日本のミュージシャンは政治的な発言や行動をほとんどしていなかった。ぼくはそれがものすごく悔しかったんですよ。「なんで自分たちに影響力があるのに何もしないんだ?」って。

―日本では「音楽に政治を持ち込む」なんてありえない時代だったと。

花房:だからこそグラストンベリーは衝撃的だったし、そこで何が起きているのか伝えるべきだと思って書き始めたんですよ。「こんなに面白いことができるのに、あなたたちは何もやらないんですか?」って。だから初期の数年間はフェス文化というよりも、反核とか政治的なことばかり書いていました。

後藤:なるほど。






アジカンとも親交のあるマニック・ストリート・プリーチャーズが6月24日に出演。「演奏はもちろん、歌詞やスクリーンに表示されるメッセージに込められた政治的メッセージにも刺激を受けた」と後藤は振り返る(Photo by Mitch Ikeda)

花房:グラストンベリーでもう一つ衝撃的だったのは、お客さんの層です。あの当時はヒッピーはヒッピー、レゲエはレゲエの人、パンクはパンクみたいな感じがあったんだけど、そんなの関係ないんだよね。子どもからお年寄りまで、いろんな世代の人たちがやってきて運動を支えている。反核運動だけじゃなくて、世界を少しでも良い場所にするためにみんなが動いているんだよね。

ぼくは当時のグラストンベリーで、「何でここにいるの?」ってみんなにインタビューして回ったんですよ。そしたら「だって楽しいし、ここに参加することで反核運動に寄付できるんだよ」と言われて。

その頃は反核運動がヨーロッパで大きくなっていて、グリーンハム・コモン空軍基地では女性たちが中距離核ミサイルの導入を阻止するための抗議キャンプを行っていたんだけど、そこにも足を運んでいろんな人たちにインタビューしたんですよ。まだ10代の子たちにどんな音楽が好きなのか尋ねると、UB40やスペシャルズが好きだと言っていて。そこでも音楽はすごいなって思ったんです。人間を行動に移す力があるんだなって。






グラストンベリーの観客たち(Photo by Mitch Ikeda)

後藤:ちゃんと聴いてる音楽に本人の政治性が表れているわけですね。日本のミュージシャンが政治について話したがらないのは事実だし、今もそういうところはあると思います。それについては自分にも反省があって、いざ震災が起きたあと「こういうときの準備を全然してなかったな」って気づかされたんですよね。何か行動に移そうにも知識がないから、反省してやり直さないといけないんだなと思って。それからデモに参加したり、自分でメディアを作ったりするようになったんです。音楽で何を歌うかはその人の自由だから好きにやればいいと思うけど、花房さんが言ったように、いち市民としては「より良い社会ににしよう」っていう気持ちがあって然るべきだと思うし、それを表に出すことが「政治的だ」ってなるのはおかしいと思う。若い世代とかにもっと良い社会をパスしないと恥ずかしいじゃないですか。

花房:それもあるし、単純にもっといい生活したいじゃん。「自分も豊かになりたい、不安なく生きていきたい」って。そのためには環境を変えざるを得ないんだよね。政治的な発言をするっていうのは硬派では全然ないわけ。むしろ超軟派なんですよ。自由に好き勝手に生きたい、その世界を作るために邪魔なものに対して、ぼくは違うと言いたいっていうね。人間はさ、政治的・経済的・文化的な世界の中で生きていて、そのどれも切り離すことはできないわけ。だからこそ、自分で声を上げて、自分で生活を変える。それを効果的にするためには運動にしないと。一人ではうまくできないから、そのためにネットワークを作ろうよっていう。ぼくはイギリスのそういう動きをずっと追ってきたんです。

後藤:そうですよね。

花房:例えば、ロック・アゲインスト・レイシズム(RAR)もそう。エリック・クラプトンがバーミンガムのコンサートで「黒人はここを出ていけ!」って言ったというのを、ぼくはロビン・デンスロウの『When the music's over』(邦題:音楽は世界を変える:反逆する音楽人の記録)を翻訳したときに知ったんだけど、誰も信用しないわけ。「ずっとブルースをやっていて、ボブ・マーリーのレゲエで初めて全米No.1になった人がそんなこと言うわけないじゃん」って、日本のクラプトン・ファンはみんなそう言うんだよね。

でも、日本にアスワドが来たときにローディーの一人とその話をしていたら「俺はその場にいたよ」って言うの。「あのとき目の前でその発言があって、会場からいっぱい人が帰っていったんだ。あれは本当の話だよ」って。

後藤:へぇー!


「ロック・アゲインスト・レイシズム」のドキュメンタリー映画『白い暴動』予告編

花房:そこからミュージシャンとかメディアが怒って「それは違うだろう!」となってRARが生まれて、スティール・パルスやアスワド、ザ・クラッシュとかが一緒になってライブをやったわけ。そういう運動を経て、1985年にもっと具体的にイギリスの政治を変えようと発足されたのがレッド・ウェッジ(Red Wedge:ビリー・ブラッグが主導、ポール・ウェラーやザ・スミスも参加した選挙運動。マーガレット・サッチャー率いる保守党政権を破るべく、労働党の勝利を目指した)だったんですよ。

ぼくは記者会見にも行ったんですけど、特に印象的だったのがブロウ・モンキーズのドクター・ロバートで、「自分はずっとこういうことをやろうと思っていた。ぼくが売れていなかったら何を言っても意味がない。でも、売れたから声を大にしていく」と話していて。しかも彼らは、選挙の真っ只中にサッチャーのことをボロクソに歌い、その曲がヒットしていた(笑)。レッド・ウェッジは「労働党に投票しよう」と呼びかけるコンサートツアーをやったんだけど「労働党を完璧に支持してるのではなく、今の政権を倒すために投票せざるを得ない。そのための圧力団体となっていくんだ」っていう、明確なビジョンを持っていた。結局うまくいかなくて自然消滅したけど、インパクトとしては残っていると思うし、彼らは具体的に何ができるのかを証明したと思う。


1986年、Red Wedgeツアーでパフォーマンスするビリー・ブラッグ

―そういう話と、グラストンベリーというフェスのあり方も繋がっている気がします。

花房:本当にそう。1984年にハイドパークで反核運動の集会があって、40万人が街中で交通を遮断してしまった。ぼくも一緒に行進したんですけど、その中にはビリー・ブラックやポール・ウェラーがいて、最後はハイドパークにステージがあってみんなで歌うわけですよ。そのとき誰かが(ジョン・レノンの)「Give Peace a Chance」を歌い出したら、ドーッと広がっていったんだよ。背筋がゾクゾクしてさ、「音楽ってすごい!」って。みんなを一緒にする力があって、エネルギーを与えてもらって、さらにそれを増幅できるっていう。あの体験とグラストンベリーがぼくの人生を変えたんだよ。それまでの自分は超ノンポリで、「政治で何が変わるんじゃボケ!」と言ってたような人間だったのに。

後藤:「デモの現場になんで音楽が必要なんだ」って、何回やっても訊かれるんですよ。でもやっぱり、音楽には異なる思想、異なる体験をしてきた人々を繋ぎ合わせる何かがある。そうやって「Give Peace a Chance」がシェアされるマジカルな瞬間にこそ、音楽の可能性があるんじゃないかなと思うんですよね。メッセージ性で啓蒙することよりも、私たちに通じ合う可能性があるんだってことをシェアしていくことのほうが大事っていうか。

花房:ただ悲しいのはね、日本の歌にそれがほとんど見当たらないこと。みんなで歌える歌がない。ソウル・フラワー・ユニオンの中川(敬)君が偉いなと思ったのは、モノノケ・サミットのときに昔の労働歌「がんばろう」をカバーして歌うわけ。「がんばろう 突き上げる空に」って歌えばモリモリとエネルギーが湧いてくる。ただ、それも労働運動をやってる人にはわかるかもしれないけど、一般の人にそうやって歌える歌がないんです。それが一番悲しい。

ぼくの親父は50年以上も共産党の党員で、労働運動をずっとやっていて。そういうレコードを聴いていたのを、ぼくは「ダセエ歌だな」って馬鹿にしてたんだよ。でも彼らには歌う歌があった。ぼくたちには歌える歌がないんです。

後藤:たしかに。日本人が日本語で歌える曲がない。日本の場合は、社会や政治への関心があるってことを楽曲から削ぎ落とすことが、反転してある種の政治性になってると思うんです。政治から離れることの政治性っていうか。なぜならば、そうしないとスタッフやファンもいい顔をしないから。とりあえずそういうことは一切匂わせずに、日常から切り離すような歌を作りましょうっていう。でも自分からすると、そっちの方がすごく政治的に見えるんですよね。ビジネスのために自分の身の振り方をコロコロ変えてるとか忖度してるって意味では、政治家並みに政治的な選択だと思う。

花房:だから、「音楽に政治を持ち込むな」という意見の方がよっぽど政治的なんですよ。そんなこと人の勝手やろって話じゃん。「フジロックに政治を持ち込むな」って言われたときに思ったのは「お前こそ政治的じゃないか? 人の自由を奪うのか? 誰が何を言おうと勝手だろう?」って。その自由を奪うのは間違ってるでしょって。




グラストンベリーを自由に楽しむ観客たち(Photo by Mitch Ikeda)

―グラストンベリーの会場にいても「誰がどう楽しもうと自由だよね」みたいな雰囲気が伝わってきますが、各々が自由に楽しむことと、そういう政治性の話は切り離せないものであるということですよね。

花房:こういうところにいると、自由に生きるために何が邪魔なのかわかってくるわけじゃない? みんながそういう想いを分かち合えれば、トラブルなんて起きないんですよ。オーガニックに世界を変えていくためには、それぞれの個人がそういうふうに生きていく必要がある。ぼくにとっては、そこが集約されてるのがグラストンベリーなんです。

後藤:ただ自分勝手なのではなく、他者に対する尊重もありますよね。日本だと混同されがちですけど。

花房:そう、それこそが個人主義なんです。それぞれが尊重し合うからいい方向に向かっていく。エゴイズムとは全然違う。

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