フジロックがグラストンベリーに学んだ「フェスのあるべき姿」 アジカン後藤正文が花房浩一に訊く

1982年のグラストンベリーで受けた衝撃

―そもそも花房さんは、どういう経緯でグラストンベリーに魅了されていったんですか?

花房:ぼくは1982年に、イギリスのブライトンで仲良くなった友人の家で居候していました。そこは他にもカナダ、アイルランド、ドイツ、オーストラリアからやって来た人達も転がり込んでいて、コミューンみたいな感じ。そこで、今も姉のような存在になっている家の主から誘われたのが最初ですね。伝統的なフェアーと呼ばれる祭りに根ざしている、というような説明を聞いていたんですけど、第一印象はウッドストックでした。会場に入ると(映画サントラの)ジャケットみたいに、カップルがブランケットをかぶって立っているし、デカいラジカセからジミヘンが聴こえてきて、もうタイムスリップしたような感じ。「なにこれウッドストックじゃん! マジ⁉️ まだこんなことやってんの⁉」みたいな(笑)。

ゴッチ:ははははは(笑)。

花房:当時はそういうフェスがどこにもなかったんですよ。フェス文化が本当はあったんだろうけど誰も騒がなくなっていたし、日本でもほとんどなかったから、もうビックリしちゃって。


初開催となった1970年のポスター。当時のフェス名は「Pop, Blues & Folk Festival」で、観客動員数は1500人、チケット料金はわずか1ポンド(ワーシー牧場が無料提供する牛乳付き)だった(グラストンベリー・フェスティバル公式サイトから引用)


1982年のポスター。当時は「CND」がフェス名に含まれていた(グラストンベリー・フェスティバル公式サイトから引用)

花房:1982年のグラストンベリーは、CND(イギリスの反核運動団体)と提携するようになってから2年目で、「お互い助け合おう」ということでジャクソン・ブラウンはギャラを一切もらわずに出演したんです。そんな彼の姿勢を受けて、ジ・エニッド(The Enid)というグループも「この危険な時代に生きる我々ミュ-ジシャンは出演料をCNDに寄付すべきだ」と声明を出し、他の出演者に呼びかけていました。

ちなみに、グラストンベリーで最大規模のステージであるピラミッド・ステージには、当時も今もピースマークが飾られていますが、そもそもピースマークというのは、CNDが反核運動に用いてきたシンボルが起源になったもの。グラストンベリーはそういう歴史的背景をずっと大切にしてきたフェスでもあるわけです。


1982年のピラミッド・ステージ、演奏しているのはジョン・マーティン(Photo by Koichi Hanafusa)


2023年、エルトン・ジョン出演時のピラミッド・ステージ(Photo by Mitch Ikeda)

花房:それで1982年当時、この辺り(グラストンベリーの会場)はもっと盆地っぽくて夕方ごろから霧が立ち込めていたんだけど、観客の誰かが懐中電灯でピラミッド・ステージの頂上に飾られたピースマークを照らすと、会場中から無数の光の筋が当てられ、(霧の中から)ピースマークが夜空に浮かび上がったんです。それを見たときは「すげえー!」って、ものすごくドラマチックに感じました。

その翌日には、当時のグラストンベリーの中心人物の一人で、PAを担当していたトニーという人物がステージ上からこう呼びかけたんです。「ほんの1分でいいから完全な沈黙をここに生み出そう、ぼくらが想いを一つにすれば何かができるんだって証明するために」って。そうしたら、広い会場中がシーンと静まり返った。ただ一人だけ、「そんなことで世界が変わるわけないだろ!」って叫んだ奴がいたけど、そんな声を遥かに圧倒するような沈黙でした。トニーは数年後、政治との絡みが嫌になってフェスから離れてしまったそうですが……どちらの光景も、いわゆる60年代から始まったオルタナティブ・ムーブメント、ヒッピーとかグラスルーツの文化が辿り着いたものだと思いましたね。

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