マイケル・マクドナルドが語る、ドゥービー・ブラザーズ来日と知られざる音楽遍歴

 
ブレイク前夜の音楽活動、スティーリー・ダンとの出会い

―さて、ここからは昔の話をさせてください。あなたがまだ地元のセントルイスにいた頃、1968年に録音したThe Delraysの「(There’s) Always Something There To Remind Me」を最近改めて聴き直して、基本的な歌い方の変わらなさに驚きました。あのようにソウルフルな歌い方は、あなたが10代の頃にもう出来上がっていたんですね。

マイケル:(笑)ああ、あれをレコーディングした時は15歳だったんじゃないかな。僕らはセントルイスを中心に演奏するバンドで、小さな地元レーベルに所属していたが、そこがメンフィスのスタックス/ヴォルト・レコーズの子会社だったんだ。それでスティーヴ・クロッパー(ブッカー・T&ザ・MGズのギタリスト)がホーンのアレンジをしてくれて、ホーン・セクションだけメンフィスで録音し、そのテープを送ってくれたので、エグゼクティブ・プロデューサーとして彼の名前がクレジットされたのさ。僕らとしては、シングルにメンフィス・ホーンズとスティーヴ・クロッパーが関わってくれたっていうだけで、大喜びだったよ。



―「若い頃にマイケル・マクドナルドというミュージシャンの基礎を作った曲」を、いくつか思いつくままに挙げてみてもらえますか?

マイケル:レイ・チャールズのアルバムならどれでも。10歳の頃に初めて聴いて以来、熱烈なレイ・チャールズ・ファンだったからね。あと、初めて聴いた瞬間、自分の中で「もっとR&Bをやろう」と決意するきっかけになった一曲がある。セントルイスでガレージ・バンドをやっていた14歳ぐらいの頃だ。当時はブリティッシュ・インヴェイジョンの真っ只中だったから、当然ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ゾンビーズ、キンクスなどを演奏してたんだけど、ある日、姉が車のカーラジオで音楽を大音量で流しながら帰ってきたんだよ。それがエドウィン・スターの「Stop Her On Sight (SOS)」(1966年)だった。車道から家へと姉の車が入ってきた時、聴こえてきたあの曲にピンときたんだ、「こういう曲をやりたいな」と。つまりは、自分達がそれまでやっていた音楽よりも、もっと洗練されたリズムのアプローチをしたR&Bがやりたい、とその瞬間に思ったんだ。



―ジャズのコード進行はどうやって身に付けたんですか?

マイケル:不思議とジャズを熱心に聴いたことはなかった。60代、70代になった今が、人生で一番ジャズを聴いている。もちろんどんな音楽もある程度は知っていたが、子供の頃はレコードプレイヤーを持ってなかったんだ。バンドに入ってツアーをするようになっても、僕が音楽を聴くのはもっぱら自分以外の誰かの家でだった。ツアー先では知り合いや友人の家の床に寝泊まりさせてもらってたんで、一晩中起きて皆で音楽を聴いたりしていた。ちゃんと自分でレコードを聴く環境を整えないままだったから、初めてステレオを買ったのはドゥービー・ブラザーズに加入した後だったよ。

それまではもっぱら叔母の家にある彼女のレコード・コレクションから聴かせてもらってた。叔母は母より年がずっと下だったので、当時としては新しめのレコードがいっぱいあったんだ。レイ・チャールズも、初期のビートルズも彼女のところで聴いたよ。その後、バンドで中西部のカレッジタウンをツアーするようになると、さっき話したように地元に住む誰かの家に泊まらせてもらってた。ライブの後は大抵パーティになるのがお決まりだったんで、自分でレコードを買わなくても、いろんな音楽を耳にできたんだ。それがかえってよかったんだと思う。周りが聴いている音楽に影響を受け、何が新しくて面白い音楽なのかということを人から教えてもらえたからね。でもジャズはあまり聴いていなかったよ。ジャズのコード進行を学んだのは、子供の頃、遠巻きに聴いていたラグタイムからかもしれない。父が初期のトラディショナルなジャズやラグタイムのアーティストの曲をよく歌っていたんだよ。

―あなたがリック・ジャラード(ニルソンなどのプロデューサー)と最初に録音したソロ名義のセッションと、スティーリー・ダンとの活動を経てドゥービー・ブラザーズに加入した後の曲を聴き比べると、後者は使うコードの種類も豊富になり、ずっと洗練された感じを受けます。ほんの数年の間に、あなたの中でどのような音楽的変化があったのでしょう?

マイケル:君たちには何も隠せないようだね(笑)。どうだったかと言うと……僕がカリフォルニアに出てきた頃は、トム・ジョーンズとバート・バカラックを足したような人になりたいと思っていた。だからやっていた音楽もその辺の影響があったと思う。リック・ジャラードとは、彼が手がけていた他のアーティストのセッションに雇われ、LAのレコーディング・シーンに知り合いが増えていった。それからクラブに出るようになり、どんな音楽が流行っているのかを知ったんだ。当時でいうダンス・ミュージックさ。ダンスと言っても今のDJやディスコではなくて――当時もディスコとは呼んでたが――ライブ・バンドが生演奏し、それに合わせて人が踊る。タワー・オブ・パワー、スティーヴィー・ワンダー、WAR、ルーファス……といった音楽だ。それをきっかけに、僕自身、よりリズミックなアプローチに変化していったんだと思う。


リック・ジャラードがプロデュースした「A Good Old Time Love Song」(1973年)

―スティーリー・ダンとの仕事を通して、彼らのどんなところから影響を受けましたか?

マイケル:彼らからは、仕事をする以前から大きな影響を受けていたよ。さっき話したクラブで仕事をしていた頃、サウスLAのどこかでだが、誰もが昼間はセッション仕事や、LAで生計を立てるために仕事をして、夜はクラブに出演するというぐあいだった。僕もツアーバンドのオーディションを受けたり、セッションをやったり……そんな時にあるディスコの仕事で一緒だったドラマーのボビー・フィガロア――彼はライチャス・ブラザーズやビーチ・ボーイズともやってた素晴らしいドラマーでシンガーだが――スティーリー・ダンのオーディションを受けると聞いたんだ。羨ましかったよ! 当時の新人バンドの中ではかなりお気に入りだったからね。

それから約1年後、ジェフ・ポーカロから連絡があり、そのスティーリー・ダンのオーディションにこないかと言われた。「いつ行けばいい?」「今はどうだ?」……それで、すぐに車にピアノを積んで向かったんだが、そのオーディションがそのままリハーサルになった。僕が選ばれたのは、ピアノの腕というよりは、高音域をかなり力強い地声で歌えるのが気に入ってもらえたようだ。もちろん、ドナルド(・フェイゲン)のパートを補うキーボードを弾けたので、バックだけでなくメロディラインもいくつか任されたりして、まさに夢が叶ったという感じだった。まさか自分にその仕事が回ってくるとは思ってもみなかったし、それがきっかけというか――ジェフ・バクスターとのつながりで、ドゥービー・ブラザーズに入ることにもなったわけだよ。



Translated by Kyoko Maruyama

 
 
 
 

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