J-POPの歴史「1988年と89年、CDが切り開いたミリオンセラーの時代」

氷室京介が挑んだ「ポピュラリティーのあるロックアルバム」

どっちにしようかなと思ったんですよ(笑)。話の流れだと「ANGEL」という選択もあるわけですけど、さっきアルバムの話をしたわけですから、ここでシングルの曲をかけるのも脳がないなと。で、アルバムの中で1番好きだった曲をかけました。氷室さんの曲の中でも、僕は3本の指に入る好きな曲です。そういうアーティストとの出会いの曲って、勝手に自分の中にあるわけです。もしこのアルバムでこの曲を聴かなかったら、僕は氷室さんとずっと付き合おうと思わなかったかもしれません。バンドで頂点を極めて、ソロで始める。そのアルバムの中で「ただのクズでいいぜ」って言った、この格好よさですよ。

88年のレコ大、実はこのとき僕は審査員だったんです。武道館で氷室さんの歌を見ていたんですね。氷室さんの挨拶が、「ポピュラリティーのあるロックアルバムを作りたかった。嬉しい」って言ったんです。80年代っていうのはロックがポピュラリティーを獲得していった10年でもあったんですね。BOØWYはそれをバンドで目指して、妥協しなかった。もちろん氷室さんが妥協したということではないですけど、商業ベースの中でどこまで先鋭的なことをやるかっていうのがBOØWYだった。氷室さんは、それをもっとメジャーなフィールドの中、もっとポピュラリティーのあるロックの形としてやろうとした。シングルでいうと、それが「ANGEL」だったんですね。で、アルバムの中の核だったのがこの曲ですよ。

88年の年間のアルバムチャート。1位が光GENJIです。2位がユーミンの『ダイアモンドダストが消えぬまに』、3位が渡辺美里の『ribbon』です。4位が久保田利伸さんの『Such A Funky Thang!』、そして5位が長渕剛さんの『NEVER CHANGE』、6位が桑田佳祐さんのソロ1st『Keisuke Kuwata』、7位がレベッカの『Poison』、8位がBOØWYの『LAST GIGS』、9位が光GENJIの2枚目『Hi』。そして10位が氷室さんの『FLOWERS for ALGERNON』。で、12位に浜田省吾さんの『FATHER’S SON』が入っているんですね。この88年の年間チャートというのは、僕らが聴いてきた音楽というか、見てきた時代がそのまま反映されているランキングだなと改めて思いましたね。年間チャートが全然時勢と違うときもありますから。

それでは4位に入っていた久保田利伸さんの『Such A Funky Thang!』の中から「Dance If You Want It」・

久保田利伸 / Dance If You Want It

88年9月に発売になりました久保田利伸さんのアルバム『Such A Funky Thang!』の1曲目です。今も歌っていますね、この曲。2枚組のアルバムでした。2月に発売になったシングル『You were mine』がトレンディドラマ『君の瞳をタイホする!』の主題歌になった。ドラマ主題歌で売れるっていう80年代の方程式は、この88年、89年までずっと生きていたんですね。『You were mine』が年間のシングルチャートのほうにも入ってくるんですけど、これはアルバムに入っていなかった。このへんがアルバムに対しての当時の彼の考え方だったんじゃないでしょうかね。アルバムで勝負する。アルバムがどこまで理解されていたか。

久保田さんは、90年代に入ってNYに活動拠点を移してしまうわけです。その当時のことを彼に聞くと、なんでNYに行ってしまったか。日本には一緒にやりたいグルーヴピープルがいなかったって言っていましたね。確かにドラマの主題歌で売れたりもして、アルバムチャートも年間4位までいったものの、やっぱりまだ日本はそういう時代じゃなかった。開花したものの、本当にまだファンキーが根付いたわけではなかったのかもしれません。89年、ファンキーステーションFM802が開局するのは、このアルバムの翌年でした。

浜田省吾 / Rising Sun (風の勲章)


1988年3月に発売になったアルバム『FATHER’S SON』の中の1曲ですね。84年の『DOWN BY THE MAINSTREET』、86年の『J.BOY』、そして『FATHER’S SON』が三部作でしたね。70年代にデビューしたとき、デビューアルバム『生まれたところを遠く離れて』ではできなかったことがいろいろあった。まだ自分は未熟だった、そういう時代でもなかった。あのアルバムの主人公だった路地裏の少年が、どんなふうに成長していったのかというのを、この3枚のアルバムで表現していますね。

『FATHER’S SON』というタイトル、テーマが父親です。彼自身がちょうどお父さんを亡くされたというときで、1945年から日本の戦後の歩みを父親探しと歌ったアルバムでしたね。僕らはアメリカが日本を犯すことによって生まれたのではないかと、そういうアイデンティティを問うた。『J.BOY』はそういうアルバムでしたけど、その完結編でした。88年3月からはじまった『FATHER’S SON』のツアーは100本あって、89年2月に終わったんです。その間、夏のイベント「A PLACE IN THE SUN」が静岡県浜名湖の湖畔、渚園でありました。これがソロアーティストの当時最大動員でした。拓郎さんのつま恋を凌いだ67000人。

88年の秋から天皇陛下の容態が思わしくなくなって、このツアー中、89年1月7日に天皇が崩御されたんですね。8日から平成になりました。僕、昭和最後のコンサートも、平成最初のコンサートも、浜田さんだったなと思いますね。昭和最後のコンサートで、浜田さんが「昭和について考えてみるのもいい機会ではないか」と言ったのを覚えています。で、平成になってすぐ発売されたのが次の曲です。

美空ひばり / 川の流れのように


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