アシッド・ジャズを今こそ再検証、ガリアーノが語る再結成とムーブメントの裏側

Photo by Dobie

 
ジャイルス・ピーターソン、ブルーイ(インコグニート)がSTR4TAを結成し、アルバム『Aspects』を通じて、歴史のなかに埋もれていたブリット・ファンクの存在を世に知らしめたのが2020年のこと。二人はその後も、2022年の次作『Str4tasfear』でストリートソウルに光を当て、イギリス音楽史の再編を迫るように作品を発表してきた。

そして2024年、ジャイルスと彼が主宰するブラウンズウッド・レコーディングスの次の一手はアシッド・ジャズの再解釈だ。象徴的グループのひとつ、ガリアーノ(Galliano)が復活し、28年ぶりのアルバム『Halfway Somewhere』をリリースした。この流れは、STR4TAで80年代のUKを再検証したあと、そこから連なる1990年代のアシッド・ジャズにも取り組み始めたと言えるだろう。

アシッド・ジャズはよく知られているにもかかわらず、その実態をうまく言語化するのは難しい。インコグニート、コーデュロイ、ジャミロクワイ、ブラン・ニュー・ヘヴィーズ、ヤング・ディサイプルズなど、代表格として挙がるグループに共通点はあるのだが、それらを同じジャンルとして括ろうとすると明らかに収まりが悪かったりする。ガリアーノは特によくわからないグループだった。様々な音楽ジャンルが入り混じっているだけでなく、青臭い不完全さもあれば、知性を感じさせるメッセージも含んでいる。その掴みどころのなさ、得体のしれない勢いとエネルギーは、どのグループよりもアシッド・ジャズと呼ばれたムーブメントを体現しているようにも思えた。

今回はガリアーノの中心人物ロブ・ギャラガーと、彼のパートナーで様々なプロジェクトで活躍してきたUK屈指のボーカリスト、ヴァレリー・エティエンヌが取材に参加してくれた。「ガリアーノとは何なのか?」を知ることは、そのまま「アシッド・ジャズとは何だったのか?」を知るためのヒントになるはずだ。


左がヴァレリー、右がロブ。最新MV「Pleasure, Joy & Happiness」(エディ・チャコンのカバー)




「ライブ演奏」することが出発点

―ガリアーノがどのように結成されたのか聞かせてください。

ロブ:ジャイルス・ピーターソンのDJセットに合わせて歌詞や詩、ラップをのせていったのが始まりだった。しかも、初めてのライブは東京でやったんだよ。アシッドハウスのイベントで、ナスティ・ロックス・インクというバンドと、ロンドン出身のDJであるデイヴ・ドーレルとその弟ローレンス、そしてデリック・Bというヒップホップ・アーティストが出演する予定だった。だが、直前になってデリック・Bが来日できないということになって、代わりに僕が行った。そこでジャイルスと一緒に初のアシッドハウスのライブをやったんだよ。それが彼のDJに合わせて僕が詩を披露するというものだった。

―結成当時のコンセプトはどんなものだったんですか?

ロブ:DJの考え方がベースになっていたと思う。つまり、音楽をキュレーションしてまとめるという考え方。僕たちには、ブリット・ファンクやブリットソウルのシーンが背景にあって、それを当時、爆発的な人気を博していたアシッドハウスと融合したんだ。DJ的観点からは、レゲエ、ファンク、ソウル、そして他のあまりプレイされていなかった音楽も色々と取り入れていった。ジャズのシーンもクールだったから、ブルーイやジャイルスのような人たちがバックグラウンドにいて、ソウルのシーンを前面に出していたというイメージだね。ガリアーノはその考え方をライブで体現したプロジェクトだと言える。


ジャイルス・ピーターソンとロブ・ギャラガー。インスタ写真の9枚目は初ライブ(会場は渋谷クラブクアトロ)のフライヤー画像

―アシッド・ジャズのシーンに、ガリアーノみたいなライブをやっていたグループは他にもいたのでしょうか?


ヴァレリー:いなかったんじゃない?

ロブ:最初はいなかったね。アシッド・ジャズはスタート地点のようなものとして捉えることができると思う。70年代のファンクやジャズをルーツに、DJ が様々な音楽をかけていたのがアシッド・ジャズなんだけど、それをライブという空間に持ち込んだというのが僕たちの応用方法だったし、他の方法で応用したバンドもいた。20年後にはSOIL&"PIMP"SESSIONSが登場し、また違った方法でジャズを表現したようにね。そういう意味で、アシッド・ジャズは変化を繰り返し、グループによって様々な変化を遂げてきたんだ。そういうことを初めてやったのはガリアーノだと思うけれど、それはガリアーノ独自の方向性だった。そして今回、ガリアーノを再結成して、自分たちのサウンドを思い出したわけだけど、この先はまた違う方向に進むかもしれないね。

ヴァレリー:当時ガリアーノがやっていたのは、クラブ・ミュージックを「ライブという設定」、もしくは「ライブというジャンル」として表現することだった。クラブで踊るためのダンス・レコードを、オーディエンスがいるライブという設定に取り入れる――そういう試みだったと思う。


1990年撮影のガリアーノ。左からコンスタンティン・ウィアー(Vo)、クリスピン・ロビンソン(Perc)、マイケル・スナイス(バイブ・コントローラー)、ロブ・ギャラガー(Vo) Photo by Martyn Goodacre/Getty Images


1991年のライブ映像、ヴァレリーも参加

―DJのシーンでライブバンドが演奏するのはすぐに受け入れられたんですか?

ロブ:僕らは当時キッズで、自分たちが何をやっているのかもよく分かっていなかった。だからこそ面白かった。そういう意味では、パンクの精神と通じているというか、とにかくやってみるという姿勢があった。僕たちは、ジャズ奏者たちが属するシーンとはあまり繋がりがなかった。僕たちが重視していたのはスキルではなく、エネルギーだったから。あの当時、僕らのようなキッズは、レコードを聴いてファンクの演奏方法を学んだんだ。音楽学校に行かなかったんだよ。ここは現代と大きく異なる点だね。ローリング・ストーンズもそう、彼らは1950年代にブルーズのレコードをロンドンで見つけて……。

ヴァレリー:それを仲間内でシェアして聴いていたのよね。

ロブ:そう、みんなで一緒に聴いていたんだ。それと同じように、当時のキッズはファンクのレコードを聴いて、演奏の仕方を学んでいたんだ。彼らは、ノース・ロンドン・ヘヴィウェイツ(ノースロンドンの重鎮たち)と呼ばれていたんだよ(笑)。僕らは80年代のロンドン式のやり方で、70年代のファンクの演奏を学んでいたんだ。

ヴァレリー:みんなそうだったんじゃない? 私も、ロバータ・フラックやスティーヴィー・ワンダーといった素晴らしいバック・ボーカルを起用しているレコードを聴いて、歌の強弱やハーモニーを習ったり、耳をチューニングしたりしたから。その経験が自分の一部になって、考え方やスタイルが確立されていった。当時は多くの人がそんなふうに、レコードに合わせて歌い、クレジットを読んで誰がどの曲に参加しているのか学んだりしながら、自分の音楽スキルを上げていったと思う。

ロブ:確かにそうだね。最初はDJ的な感じで、僕とジャイルスと他に一人二人くらいで集まってクラブでやっていたんだけど、ヴァレリーのような人たちと出会い、ガリアーノはライブバンドとして演奏するのが定番になったんだ。


2023年のライブ映像、1992年リリースの人気曲「Prince of Peace」(ファラオ・サンダースのカバー)を披露

Translated by Emi Aoki

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