パール・ジャム『Dark Matter』 新たな傑作をもたらしたキーマンが語る制作秘話&全曲解説

Photo by Danny Clinch

パール・ジャム(Pearl Jam)による通算12作目の最新アルバム『Dark Matter』が大きな話題を集めている。プロデューサーを務めたのは、ザ・ローリング・ストーンズの最新作『Hackney Diamonds』でも素晴らしい仕事ぶりだったアンドリュー・ワット(Andrew Watt)。パール・ジャムの大ファンであり、彼らの結成とほぼ同時期の1990年10月に生まれた敏腕が、憧れのバンドとのコラボレーションについて余すことなく語った。

アンドリュー・ワットとパール・ジャムは、ほぼ同時に誕生した。エディ・ヴェダーが後に結成するバンドのメンバーと初めて対面するためにサンディエゴからシアトルへと向かった日と同じ週にあたる1990年10月2日に、現在33歳のプロデューサーはこの世に生を受けた。「僕が母の胎内から出ようとしていた時に、彼らは『Release』を書いていたっぽいよ」とワットは話す。「その2日後に、彼らはOff Rampっていうカフェで初ライブをしたんだ。仰々しい言い方はしたくないけど、やっぱり縁を感じるよ」。

90年代にパール・ジャムがシーンを席巻していた頃、ワットの主な関心ごとはクロールの習得としっかり食べることだった。だがティーンエイジャーだった2000年代に、彼はマニアと言っていいほどの大ファンになる。「世界で一番好きなバンドだ」と彼は話す。「彼らのコンサートに足を運んだ回数なら、並大抵のファンには負けないはずだよ。少なくとも40回は行ってて、彼らのTシャツは全部持ってる。僕が経験した生涯最高のコンサートは、2009年のハロウィンにフィラデルフィアのSpectrumで行われたパール・ジャムのショーだ」。

アンドリュー・ワット関連作をまとめたプレイリスト、近年ではJUNGKOOK(BTS)やポスト・マローンなどにも携わる

10年近く前にジャスティン・ビーバーやセレーナ・ゴメス、5・セカンズ・オブ・サマー等のポップ系アクトをプロデュースし始めたワットにとって、パール・ジャムのレコードを手がけることは悲願だった。2020年にオジー・オズボーン『Ordinary Man』をプロデュースしたことで、彼はロックのフィールドに進出する糸口を掴む。ワットはその後、イギー・ポップの『Every Loser』、そしてザ・ローリング・ストーンズの『Hackney Diamonds』のプロデューサーとして起用される。また彼はエディ・ヴェダーのソロアルバム『Earthling』をプロデュースし、チャド・スミスとグレン・ハンサード、ジョシュ・クリングホッファーと共に、ヴェダーのバックバンドのギタリストとしてツアーにも同行した。

ワットはその経験を通じて、「Better Man」と「Porch」をヴェダーと一緒に演奏するという10代の頃からの夢を叶えただけでなく、パール・ジャムの新作『Dark Matter』のプロデュースという大役を勝ち取った。とあるアーティスト(オジー・オズボーンの話が正しければ、それはレディー・ガガかもしれない)とスタジオ入りしていたある土曜日の休憩時間に、彼は本誌の電話取材に応じ、パール・ジャムへの思い入れと『Dark Matterr』の制作について語ってくれた。



パール・ジャムに導かれてきた半生

─パール・ジャムのことを初めて知ったのは?

ワット:「Jeremy」のミュージックビデオだったと思う。5歳上の兄のジェイソンと一緒に、当時夢中だったMTVで観たんだ。兄はクールな音楽をたくさん知ってて、僕よりも多かったお小遣いの大半をCDに注ぎ込んでた。兄からいろいろと聴かせてもらって、そのうちのひとつがパール・ジャムの『Ten』だった。あのレコードに、僕はすっかり魅了された。ディスクマンにCDを入れてヘッドフォンを付けて、その世界観にひたすら没頭してた。怒り、憂鬱、幸せ、そして激情といったものに、僕はあのアルバムで初めて触れたんだ。

─パール・ジャムのようなバンドに入れ込んでいた友達はいましたか?

ワット:いなかった。子供の頃、僕の周囲にはバンドをやりたいっていうやつが少なかった。だから僕はいろんな楽器の弾き方を自分で学んだし、レコーディングも独りでやってた。ベースとギターの弾き方、それにドラムも、僕はパール・ジャムのレコードに教わった。だからバンドの各メンバーが、僕にとってすごく大きな存在なんだ。自他ともに認める大ファンの僕は、彼らのプレイスタイルをよく知ってる。だから彼らと仕事をすることになった時、僕が意識したのはパール・ジャムがパール・ジャムらしくあることだった。バンドを僕の手で変えようなんていう考えはなかったんだ。

─パール・ジャムのコンサートに初めて行ったのはいつ?

ワット:2003年のマディソン・スクエア・ガーデン公演だったと思う。それ以降、何度も足を運ぶことになったんだ。


アンドリュー・ワットとエディ・ヴェダー、2022年撮影(Photo by Jeff Kravitz/FilmMagic)

─彼らのショーはとてもユニークで、毎回内容が大きく異なります。フィッシュのようなジャムバンド以外では、ステージでそういうアプローチをするメジャーなバンドは多くありません。

ワット:ショーがある日、エディ・ヴェダーは午後2時かそれよりも前に会場入りして、同じ会場あるいは街で過去にどの曲を演奏したかを入念に確認するんだ。ファンに特別な経験をしてもらうために、セットリストにあそこまでこだわる人を僕は他に知らない。彼らは常にオープンで、必要とあらば10年以上演奏していない、下手をすれば聴いてさえいない曲でもプレイする。リハーサルルームで音を合わせながら、どう演奏するかを熟考する。本当にものすごいバンドさ。彼らは絶対にオーディエンスの期待を裏切らない。

─彼らとの出会いは?

ワット:何年も前に、僕はあるポップアクトのバンドでギターを弾いてた。当時はよくマリファナを吸ってたんだ、もうやめたけどね。あと訪れた街で必ずギターを一本買ってて、その時はすごく古くて大きなエレキギターを手に入れたばかりだった。マリファナを吸いすぎて、バスを降りた時は自分がどこにいるのか一瞬分からなかったけど、そこは(カリフォルニア州マウンテンビューにある)Shoreline Amphitheatreだった。Bridge School Benefit(ニール・ヤングが主催していた慈善コンサート)の舞台だったあの会場は、パール・ジャムのファンにとっては思い入れのある場所なんだ。

テンションが上がった僕は、デスクで働いていた女性に話しかけて、エディ・ヴェダーについていろいろと質問した。彼はすごくいい人だったとその女性は言ってたよ。次のBridge School Benefitの日程について聞いたところ、僕の誕生日の10月20日だってことがわかった。彼女はラインナップを把握していなかったけど、エディ・ヴェダーは必ず来るはずだと思った。彼らは毎年のように来ていたからね。

ハイだったこともあって、僕はその場で長い手紙を書き、それを彼に渡してくれるようその女性に頼んだ。あと買ったギターも彼女に預けて、エディにプレゼントしてほしいと伝えた。彼女のことを何も知らないにも関わらずね。エディ・ヴェダーに読んでほしいという一心だったんだ。手紙の最後はこう締め括った。「ところで、今日は僕の誕生日なんだ。僕の電話番号を伝えておくよ」。

あれが6月か7月、あるいは8月とかだったと思う。それから数カ月後のある日、家に帰ると不在着信履歴が残っていて、市外局番はシアトルだった。まさかとは思ったけど、ボイスメールを確認したら、それはエディからだったんだ。すぐかけ直したけど、彼は電話に出なかった。そのボイスメールの内容はマジでクールだったよ。

僕は彼にテキストを送った。当時入ってたポップバンドでクリックを聞きながら演奏することや、毎晩同じ曲を同じようにプレイすることに嫌気がさしていて、脱退するべきかどうかか迷っているっていう内容だったんだけど、彼はすごく長いメッセージを返してくれた。彼は僕が毎晩オーディエンスの前で演奏できていることがいかに幸運かを理解して、それを思い切り楽しむよう諭してくれてた。それがきっかけで僕はそのバンドにとどまったんだけど、それからしばらくして僕らはジャスティン・ビーバーと一緒にツアーに出ることになった。僕のプロデューサーとしてのキャリアは、そのツアーの後から始まったんだ。これまでもずっとそうだったように、エディの言葉が僕を導いてくれたんだよ。



─実際に対面したのは?

ワット:それ以降はメールで連絡を取り合ってた。しばらくして僕がプロデュース業を始めると、お互いの共通の友人が増え始めて、そういう人々と会うことも多くなった。その後ユニバーサルの(EVを務める)Michele Anthony、そしてバンドのマネージャーのSmitty(Mark Smith)と会って、エディと一緒に曲を作ってみないかと言われたんだ。エディが慈善コンサートを開いていた会場で、僕はついに彼と対面した。ジャムセッションをやって、一緒に曲をひとつ書いたんだ。

それからというもの、彼は友人としてもクリエイティブパートナーとしても、僕の人生においてすごく大きな存在になった。彼との関係が僕にとってどれだけ重要かは、言葉ではとても言い表せない。夢が叶うっていうのは、こういうことなんだって思うよ。僕はマディソン・スクウェア・ガーデンでのショーで、「『Alive』のギターソロを僕に弾かせて!」っていう手書きのサインボードを掲げてたくらいだからね。そして実際に、その願いは叶ったんだ。

Translated by Masaaki Yoshida

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