ブライアン・イーノが歌う「感情の時代」 最新作『FOREVERANDEVERNOMORE』を考える

 

Photo by Cecily Eno

建築家ではなく、庭師のように考える


─ちなみに、イーノ自身は最新のインタビューのなかで、「このレコードを作り始めたとき、これまで作ってきたような、ある種の音楽風景の中に人間の姿を置いてみたい、と思いました」と語っています。加えて「これは自伝的なアルバムではなく、誰かが作ったかもしれない演劇作品」のようなものだと説明しています。

イーノ的な言葉を使うなら「感情というものは予測不能なものである」という前提で、それとどう向き合うかということを考えたということなのかもしれません。イーノは常にアンコントローラブルなものごととどう向きあうかということに興味をもってきたアーティストだと思いますし、「計画」や「管理」「制御」といった考えから離脱することを長いこと奨めてきました。昨年ロンドンで行われた「In a Garden」というエキシビジョンでは、計画や管理、制御ができない何かと応答しながら何かをつくりあげていくことを、「庭師」に擬えて、こう語っています。

 庭について考え、わたしたちがなぜそれが好きなのかに思いを馳せることは、実りの多い逸脱だった。人はアートを建築のように考えがちだ。つまり、何かをつくる前には必ず「プラン」や「ビジョン」が必要で、それができてからつくり始めるものと想像してしまう。しかしわたしの感覚では、アートの制作を考えるにあたって有用なのは、むしろそれをガーデニングのようなものとして考えることだ。

 あるいは別のところでは、もっと端的にこう語っています。「建築家ではなく、庭師のように考える。つまり、終わりではなく、始まりをデザインする」。


『FOREVERANDEVERNOMORE』には、「Garden(庭)」をタイトルに掲げた曲が2つ収録されている

─かっこいいですねえ。先に名前のあがった近年のアンビエント音楽家を語る上でもしっくりくる表現だと思いますし、そこでは感情というものも、管理や制御のできない庭のようなものと同じように扱われているのかもしれません。

イーノはそうした態度を「委ねる=Surrender」ということばで、これまでよく語っていますが、よくよく考えてみますと、私たちの身体からして、私たちの完全なる管理下に置かれているのかといえば、決してそんなことはないわけでして、例えば、腸内細菌について考えてみればわかるように、自分の意識や意志とは関係のないところで、身体というのは微生物という無数の「他者」による自律的な運動によってバランスが保たれていたりするわけですよね。感情といったものも、そうした「内なる他者」として理解することが大事なのかもしれません。

─イーノは「(環境問題などで)狭まっていく不安定な未来」について考えた上で、「地球を救う唯一の希望は、私達が地球に対して異なる“感情”を抱き始めること」だとも語っていますが、腸活の延長線上に地球を感じるみたいなことを言ってるのかもしれませんね(笑)。

イーノ先生が腸活をしているかどうかは知りませんが(笑)、とはいえこれは決して冗談ではなく、微生物レベルで見れば、人間の身体はまわりの環境とオープンにつながった開放系のシステムですから、それ自体がエコシステムの一部だったりするんですね。『失われてゆく、我々の内なる細菌』という非常に面白い本がありまして、これを読むと、人間が抗生物質のようなものをもって、いかに自らをそのエコシステムから自己疎外してきたかがよくわかるのですが、本来は、これは環境問題というもののひとつの大きな論点であるべきものだと思うんです。

─環境から自分自身を進んで自己疎外している存在が、環境を語るなんてちゃんちゃらおかしい、と。

環境を考えるということは、そういう観点からいくと、どうやったら自分たちがもう一度その環境のなかに「入り直す」ことができるのかということのように思うのですが、それこそがまさにイーノが語る「庭師」の比喩のポイントなのではないかと思います。

─イーノが本作について「これはプロパガンダではない」ということも語っていますが、それはまさに、地球環境というものを「管理」や「制御」の対象として扱うことへの警鐘でもあるわけですね。

だろうと思います。

 
 
 
 

RECOMMENDEDおすすめの記事


 

RELATED関連する記事

 

MOST VIEWED人気の記事

 

Current ISSUE