元シルヴァーチェアーのダニエル・ジョンズ、豪州の国民的スターが語る「進化と挑戦」

 
シルヴァーチェアー時代に爆発した才能

彼のことをよく知る人々は、彼がそういったレコードを作ったことに驚きはしないだろう。常に先見の明を示してきた彼は、20代に入ったばかりの頃にその多才ぶりを明確に示し始めた。シルヴァーチェアーが1995年にリリースしたデビュー作『Frogstomp』はストレートなグランジのレコードだったが、1997年作『Freak Show』では彼のユニークなテイストをより前面に押し出していた。1999年発表の『Neon Ballroom』は、「優れたリズムセクションを伴う事実上のソロ作」を予見させるレコードだった。

シルヴァーチェアーが『Neon Ballroom』以降にリリースしたアルバムは全てバンドの最後の作品になるはずだったというが、同作を完成させてからというもの、ジョンズは他のメンバーから怒りをぶつけられるようになったという。「このバンドは3人によるもので、独善的になるべきじゃない。そんな風に言われてた」。ジョンズが自身のビジョンを追求しようとする中で、メンバーのベン・ギリーズとクリス・ヨアンノーはバンドミーティングの場で、自分たちの存在を無視するなと彼に警告した。

「はっきり言ったよ。『納得できないかもしれないけど、僕は今後1人でレコードを作るつもりだし、君らはただのリズムセクションっていう位置づけになる。それが不満なら、僕は別のプレーヤーを探す』」と彼は話す。「そうならないことを望んでた。2人とも優れたミュージシャンだったし、僕らはみんな幼馴染みだったから」



『Freak Show』よりもずっと壮大なビジョンが示された『Neon Ballroom』のようなレコードを作ることは、ジョンズにとっては覚悟のいることだった。高校生だった頃、彼はいじめの標的にされることを恐れて、そういった野心をひた隠していたからだ。

「高校生活はトラウマ的体験だった」と彼は話す。「何のビジョンも持ち合わせていなかったわけじゃないけど、次に何をすべきかは決めかねてた。何かで突出した結果を出せば、多分いじめられるだろうから。僕らは十分に成功してたけど、もっと大きな野心は隠してた。目をつけられるのが嫌だったから」

「高校を卒業してすぐ、僕はある一軒家に引っ越した。そこで『Neon Ballroom』を作り始めたんだ。ようやく何の制限もなく創作できるようになったんだよ」

当時に思いを馳せているのか、彼は少しのあいだ押し黙っていた。彼が目に溜まった涙を拭った時、部屋の空気が変わったように感じた。

2002年、シルヴァーチェアーはバンド史上最も壮大なレコードと言われる『Diorama』を発表した。作曲家ヴァン・ダイク・パークスとコラボレートし、バロックポップのカラーをより強く押し出した同作では、バンドの代名詞であるグランジのサウンドにとどまらず、オーケストラを従えたパワーバラードにまで挑戦していた。批評家たちの反応こそ鈍かったものの、同作はARIAアワードでノミネートされた7部門のうち5部門を受賞した。当時ジョンズは反応性関節炎を患っていたが、同アワードで披露した「The Greatest View」はバンド史上屈指のパフォーマンスとして記憶されている。

ピーター・ガブリエル、キング・クリムゾン、トゥール、ミューズ等との仕事で知られ、グラミー受賞歴もあるプロデューサーのデヴィッド・ボットリルは、『Diorama』をジョンズと共同プロデュースした時のことをこう振り返る。

「彼は類まれな音楽的才能の持ち主だと思う。恵まれすぎてると言ってもいいくらいにね」とボットリルは話す。「彼はきっと、商業的成功を求められることに葛藤していると思う。作曲家としてもアーティストとしても、彼は独自の存在だから」

5分半の間にゴージャスなオーケストラのアレンジと複雑なコード進行、そしてオペラを思わせる迫力に満ちたヴォーカルを盛り込んだ「Tuna in The Brine」は同作のハイライトの1つであると同時に、ジョンズの類まれな才能を体現しているとボットリルは話す。

「彼はピアノを弾いたことがなかったけど、練習を重ねて『Tuna in The Brine』を書き上げた。あれほど複雑な曲はそうお目にかかれないよ。彼にしか書けない曲だと思う。子供の頃にギターを手にとって、CやDやGの曲を書く人は星の数ほどいるけど、『Tuna』のような曲を作る人はいない」



ボットリルは、ジョンズとシルヴァーチェアーのメンバーと一緒に『Diorama』を制作した時に、大衆の理解力不足がジョンズのユニークな才能と想像力の足枷になっていると感じたという。

「特別で個性的でエモーショナル、そういう曲を作りたいという野心が、私をダニエルと巡り合わせてくれたんだと思う。そして時々、他に言い方が思い浮かばないけど、世間の理解が及ばないようなものを生み出してしまうんだ」

彼は同作を「大衆が理解できるよう分かりやすくする」ことができなかった責任は自分にもあると認めながらも、ロック史に名を残す名曲の多くが伝統的なフォーマットからは逸脱していながらも、時を超えて多くの人々に愛され続けていると主張する。

「(クイーンの)『Bohemian Rhapsody』はその最たる例だ」と彼は語る。「あれがポップスの一般的なフォーマットに沿ってないことは誰にだって分かる。それでいてとてつもない成功を収めて、今じゃクラシックロックやポップ史上屈指の名曲として認知されてる」

「あの頃の大衆は、ポップやロックにおける実験を歓迎したんだ。私自身、新しいというよりも、忘れ去られつつある何かを現代に蘇らせるということにすごく興味があった」

多作なソングライターでこれまでにグラミー賞を3度受賞しており、No.1ヒットを多数出しているポップ/ロックアクト、ワンリパブリックのライアン・テダーは、シルヴァーチェアーとジョンズの熱心なファンとして知られている。ジョンズよりも2カ月だけ若いテダーにとって、彼はオーストラリア出身のアーティストが夢見るキャリアを地で行く存在だという。

「(シルヴァーチェアーは)すべてのティーンエイジャーにとってスーパーヒーローのような存在だった。僕が15歳だった頃、レコード契約を交わすなんて夢のまた夢だったし、まともな曲を書けるやつなんて周りに1人もいなかった」と彼は話す。

「僕が曲を書き始めたのは15歳の時だった。多分、僕はオクラホマいちのシルヴェーチェアーのファンだったはずだよ。バンドが解散するまで、僕は彼らの動向をずっとチェックしてた」

テダーが指摘するように、シルヴァーチェアーとワンリパブリックのキャリアが重なった期間はごくわずかだ。『Young Modern』のリリースから数カ月後に、ワンリパブリックはデビューアルバム『Dreaming Out Loud』を発表している。にも関わらず、テダーは『Young Modern』とリードシングルの「Straight Lines」がワンリパブリックの方向性に大きく影響したと語る。

「2007年か2008年だったと思うけど、僕らがアメリカでプロモーション活動をしてた時に、彼らは(『Straight Lines』の)宣伝をしていた。僕はラジオの番組プログラマーに会うたびに、『シルヴァーチェアーのシングルをかけるべきだ』って言ってた」と彼は話す。「『Straight Lines』は最高だ、絶対チェックすべきだってね」

「僕らはみんなあのレコードに夢中だった。実際、ワンリパブリックで何度かコピーをやろうとしたこともあった」



シルヴァーチェアーの新作に対する米国での反響は鈍かったが、テダーはジョンズのミュージシャンとしての才能と、オーディエンスを満足させるために同じことを繰り返したりしないという姿勢が、彼が真のアーティストであることを証明していると主張する。テダーはアメリカのリスナーを「世界一移り気なオーディエンス」としていたが、ジョンズがメジャーレーベルから押し付けられたシナリオを拒否し、自身のクリエイティビティに忠実であろうとすることは、アーティストとしての彼の価値観をはっきりと示している。

「(ザ・ディソーシエイティブズとヤング・モダンを)並行してやってるあたりに、彼の多才ぶりと奥深さを感じる。もはやクレイジーだよ」とテダーは話す。「かと思えば、ソロ作ではR&Bやアーバン系をやってる。彼はきっと、その気になればどんな音楽でも作れるんだろうね」

「基準になるものがない状態って、すごく難しいんだ。ジャンルやスタイルに縛られない、ボーダーレスなものを生み出す才能を持っている場合は特にね。不思議に思うかもしれないけど、器用であるがゆえに悲劇を招くことってあるんだよ。いつも決まったやり方で歌うシンガーや、特定の楽器に特化したプレーヤー、1つのジャンルにしか興味のないソングライター、僕はそういう人たちのことを羨ましく思う。それって、実は歓迎すべきことなんだよ。ダニエルのようにあらゆることが選択肢になるアーティストは、その並外れたクリエイティビティに振り回されてしまうから」

Translated by Masaaki Yoshida

 
 
 
 

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