インターポール20年の歩みを徹底総括 NYの象徴的バンドがアルバム全7作を振り返る

Photo by Ebru Yildiz

ストロークスやヤー・ヤー・ヤーズと並び、2000年代NYのインディロックを牽引したインターポール(Interpol)も、デビューから早20年余り。彼らはいまも非常に熱心なファンベースを抱えているが、その一方でバンドの歴史や変遷を詳しく知らないという若いリスナーも増えてきたことだろう。そこで、11月29日(水)に梅田クラブクアトロ、11月30日(火)に神田スクエアホールで開催される来日公演を前に、デビューアルバムから昨年リリースされた最新作『The Other Side of Make-Believe』に至るまで、バンドの歴史をアルバム単位でギタリストのダニエル・ケスラーに振り返ってもらった。この決定版インタビューは、全アルバムの曲を漏れなく演奏するという来日公演の予習に最適であると同時に、誰でも「今のインターポール」に追いつける唯一無二のテキストになっているはずだ。

※11月2日追記:東京公演は機材輸送の事情により日程・会場変更(文中に反映済み)


左からサム・フォガリーノ(Dr)、ポール・バンクス(Vo, Gt, Ba)、ダニエル・ケスラー(Gt, Key)
Photo by Ebru Yildiz


1. 『Turn On The Bright Lights』(2002年)


―『Turn On The Bright Lights』は2000年代のベストアルバムの一枚として必ずと言っていいほど名前が挙がる歴史的名盤です。アルバムに収録されている「PDA」や「Roland」などは90年代後半にその原型がすでに出来ていましたが、当時はインターポールのようなサウンドを出しているバンドは他にまったくいませんでした。その時点で、自分たちがやっていることがかなり特別でユニークだという自覚はあったのでしょうか?

ダニエル:そんな自覚はなかったよ。でも、このアルバムのことを「名盤」と言ってくれたのは嬉しいね! 他の駆け出しのバンドやアーティスト同様、当時は俺たちにとっても大変な時期で、バンド活動をやりたいという気持ちはあったけれど、それを後押ししてくれるような反応も感じられないし、ライブに来てくれる人もそんなに多くなかった。自分たちの活動に興味を示してくれるレコード会社もいない。そういう状況だと、「この活動を続けているのは、自分が大好きなことだからなんだ」という思いが基盤として確立されるんだ。自分の活動を信じて、自分のためにやる。そういう思いだったよ。俺たちは、最初のレコードを出すまでに5年間バンド活動を続けていた。だから、俺たちの活動がオーディエンスに受け入れられるようになるなんて、全く想像していなかったんだ。

―周りのバンドと違うサウンドを出しているな、という感覚もありませんでしたか?

ダニエル:当時はインターネットの黎明期くらいだったから、SNSもない時代で、周りでどんなことが起こっているかよく分からなかったんだ。自分が住む都市のことについてさえも。だから、自分たちが特別なことをやっているという自覚はなかった。俺たちはバンドとして音楽を作り始め、そこには素晴らしいケミストリーがあり、それを活かして音楽をやっていただけなんだ。そのケミストリーがあったことに関しては恵まれていたと思うけどね。




―90年代後半のニューヨークでは、60年代のソウルミュージックなどがかかるクラブイベントと、80~90年代のイギリスのロックがかかるクラブイベントが人気だったと聞きます。のちにデビューするバンドのメンバーたちも通っていたみたいですが、当時そのようなクラブには顔を出していましたか? また、そういったクラブに刺激を受けたりしましたか?

ダニエル:そうだね。当時は夜、遊びに行くとしたら、みんなそういうクラブに行っていた。俺の場合、そこからインスピレーションを受けたというよりは、若者として、そういうシーンに遊びに行って、自分と同じような考えのキッズたちがそこにいるというのが良かった。それは今の時代でも同じかもしれないけれど、当時はSNSやネットも普及していない時代だったから、似たような考えや価値観の人に出会うためにはそういうところに行くしかなかったんだ。

―具体的にどんなクラブだったんですか?

ダニエル:一つはShoutというクラブで、ノーザンソウルのようなイギリスらしいヴァイブスのパーティを何年もやっていたところだった。もう一つは、Don Hill’sというクラブでTiswasというパーティがあって、ブリットポップとかがプレイされていた。それにバンドのライブも時々あって、俺たちもそこでライブをやったことがある。のちのニューヨークのシーンの一員となった多くのバンドが、Tiswasとかでデビュー前にライブをやっていたと思うよ。だから、そういうクラブイベントは人気だったし、音楽が好きな人たちで、クラブ遊びが好きな人たちはそういうところに行っていたね。


『Turn On The Bright Lights』ドキュメンタリー映像

―「『Turn On The Bright Lights』は9.11直後のニューヨークの空気感を完璧にキャプチャーしたアルバム」という当時のメディアからの評価に対するあなたの所感を教えてください。

ダニエル:メディアがそういうことを言っていたのは覚えているよ。でも、俺たちがこのアルバムの楽曲の大部分を書いたのは9/11より前で、9/11のすぐ後、2001年の10月にレコーディングに入ったんだ。だから、ある意味、このアルバムは当時のサウンドトラックというか、背景(backdrop)になったんじゃないかと思う。うん、メディアがそういう風にアルバムを評価するのも理解できるよ。例えば、あのアルバムの「NYC」という曲は、あの事件以前に書かれたもので、あの事件とは何の関係も無いんだけど、コーラスの「New York cares(ニューヨークは心配しているよ)」という部分を聴いた人は、あの事件と何かつながりがあるんじゃないかと思ってしまうかもしれない。その考え方は俺にも理解できる。



―リリースから20年以上経った今も、『Turn On The Bright Lights』が人々の間で語り継がれるアルバムになったことをどのように感じていますか?

ダニエル:ものすごいことだと思うよ。すごく嬉しいし、色々な意味で感動させられる。俺たちは『Turn On the Bright Lights』をリリースするまでに、5年間バンド活動をやっていた。さっき君が言った通り、「PDA」は俺たちが最初に書いた曲で、1997年か1998年に書いた曲だね。だから、(デビュー前の)俺たちはバンドとしての方向性を探っていたわけではなくて、既に自分たちのやりたいことは決まっていた。俺たちは最初からバンドとしてのアイデンティティが確立されていて、何も変わっていないんだよ。

―ええ、初期のデモ音源を聴いても、既にインターポールらしさは完成されていたと感じます。

ダニエル:でも、俺たちには、ライブをやってもあまり人が集まらず、レコード会社からも興味を示されないという5年間があった。俺たちを受け入れてくれるようなオーディエンスが現れるなんて、期待してなかった。だから、当時、俺の夢はアルバムを一枚作るということだったんだ。『Turn On The Bright Lights』を作って、Matadorという今も所属している素晴らしいレーベルからリリースできた時点で、俺の夢は達成された。それ以降のことは何も考えていなかったよ。だから、20年後にこうやって、君にそんな質問をされていること自体がものすごいことだと思う。

それに今、18歳、19歳くらいの子たち、アルバムが出た当時はまだ生まれていなかった子たちがこのアルバムに共感してくれているというのは本当に素晴らしいことだと思うんだ。それがアートの素晴らしいところで、自分が創造した作品が世代を超えて共感されるということはアーティストにとって非常に嬉しいことだよ。個人的にもあのアルバムの曲は今でも大好きだし、ライブで演奏するのも大好きなんだ。自分でも、今の時点であのアルバムに共感できることは素敵なことだと思っている。


インターポール、2002年撮影。左からサム・フォガリーノ、ダニエル・ケスラー、カルロス・デングラー(Ba, Key:2010年脱退)、ポール・バンクス(Photo by Wendy Redfern/Redferns)


2. 『Antics』(2004年)


―『Antics』は1stで確立した美学やスタイルをある程度継承しつつも、演奏は格段にダイナミックになり、より幅広いリスナーに訴えかけるキャッチーなソングライティングが目を引きます。一体どのようにして短期間でこのような成長を達成できたのですか?

ダニエル:『Antics』と『Turn On The Bright Lights』の間には2年という期間しかなく、『Turn On The Bright Lights』をリリースした後は、ずっとツアーをしていたんだ。俺個人としては、次に何をしようとか、何をするべきかということを考えすぎないように意識した。俺たちは、『Turn On The Bright Lights』のツアーの合間に作曲をしていたんだ。音楽業界では「2枚目のスランプ」という表現があって、2ndアルバムはあまり良くないものになりがちということが、よく言われている。だから、俺たちはそういうプレッシャーやストレスをあまり意識しないように作曲を続けていたよ。とにかく前に進もうという一心で。外の世界を気にせず、自分たちの活動を続けて行く。それが功を成したんだと思う。

―では、あなた自身も『Antics』での音楽的成長を実感している?

ダニエル:『Antics』は、『Turn On The Bright Lights』が進化したアルバムだと思うし、バンドとしても上達しているというか、作曲プロセスもよりディープなものになり、考え過ぎずに、自然な進化を遂げていった。その結果として、『Antics』が出来たんだと思う。今でも『Antics』からの楽曲を聴くと、『Turn On The Bright Lights』から進化したバンドということが俺には聴き取れる。曲のパートが複雑になっていたり、トリッキーな変化が加えられていたり、バンドとしての成熟と経験が感じられるんだ。



―「2枚目のスランプ」の話がありましたが、絶大な評価を受けた1stのあとで、それについて考え過ぎないようにするというのは、実際のところ簡単ではなかったのではありませんか?

ダニエル:俺は批評に対して繊細なわけではないんだけど、普段の生活でも、雑音を遮断するのが苦手な方なんだ。だから、とにかく今までやってきたことを変えずに、今まで通りやるように自分を集中させたね。純粋なソングライティングや、バンドメンバー同士から受けるインスピレーションに不要な影響を与えたくなかったから。そもそも人々が俺たちに興味を持ってくれたのは、1stアルバムのおかげなんだから、俺たちは今までやってきた通りのことをやることに集中すればいいと思った。それが、俺たちの次の作品に興味を持ってくれる人たちに対して、俺たちができるベストなことだから。そういうことを念頭に置いていたよ。




―ストロークスやヤー・ヤー・ヤーズをはじめ、同時期にデビューしたインディロックバンドたちとは当時から交流が深かったと思います。考え方やバンドとしての姿勢など、互いに影響を与え合うことはありましたか?

ダニエル:俺たちがバンド活動を始めた頃、特にレーベル契約を結ぶ前は、ヤー・ヤー・ヤーズの存在を知らなかったし、ストロークスもまだ世界的な人気が出ていないという時代だった。だから、彼らの存在も知らなかったんだ。SNS以前の時代では同じ都市にいても、ストロークスのような素晴らしいバンドが5ブロック先にいるということが分からなかったんだよ。だから、ストロークスやヤー・ヤー・ヤーズ、TV オン・ザ・レディオ、ザ・ウォークメンなど数々の素晴らしいバンドの活躍によって、ニューヨークのインディシーンが脚光を浴びた時に初めて、「こんなにたくさんのインディロックバンドがニューヨークにはいて、みんなそれぞれ違った独特の活動をしているんだ」と気づかされたんだ。

―彼らのようなバンドがいることを知って、率直にどう思いましたか?

ダニエル:みんなそれぞれ違ったサウンドだけれど、みんなすごくクールで、各々がさまざまなインスピレーションを受けて、独特の表現をしている。そんな現象が起こったことがすごいことだと思うし、今のこの世界で、同じことがまた起こるかどうかも分からないね。とにかく、ニューヨークのインディロックのシーンが脚光を浴びて以来、俺たちは、ストロークスやヤー・ヤー・ヤーズの比較対象としてよく挙げられてきた。それは嬉しいことだよ。そのおかげで、俺は彼らとも知り合いになれたし、ストロークスやヤー・ヤー・ヤーズの音楽も好きになった。ザ・ウォークメンやTV オン・ザ・レディオ、その他数多くのバンドも。バンドメンバーの2人も同じ思いだよ。今ではストロークスやヤー・ヤー・ヤーズのメンバーたちとは近しい友人で、そんな関係性が築けたのも素晴らしいことだと思う。アーティストとしても、ファンとしても。そして、この20年間、シーンの一員として語られるバンド同士としてもね。 

Translated by Emi Aoki

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