クラウス・ノミの「異質さ」を再発見すべき理由 ボウイも魅了したLGBTQヒーローの歩み

クラウス・ノミ(Photo by Impress Own/United Archives via Getty Images)

 
クラウス・ノミの没後40周年を記念して、1st『オペラ・ロック(Klaus Nomi)』(1981年)、2nd『シンプル・マン』(1983年)、ライブ・アルバム『イン・コンサート』(1986年)、ベスト盤『アンコール~ベスト・オブ・クラウス・ノミ(ENCORE.. Nomi’s Best)』(1983年)の4作品が本日4月28日、初のストリーミング解禁。6月16日(金)にはCDとヴァイナルでの発売も予定されている(国内盤CDは6月21日発売予定)。一世を風靡した奇才と改めて向き合うべき理由とは? 音楽評論家・岡村詩野に解説してもらった。

異質であればあるほどその存在の真意が伝わる。極端であればあるほどその発信源の重要性に気づかされる。そして、奇妙という感覚を残せば残すほどそれは時間をかけて抽象から具象へと形を変える。大衆音楽……今日のポップ・ミュージックの発展に欠かせなかったいくつかの要素のうち、おそらく最も軽視されがちなのは、こうした違和感、異分子性の苦悩と勇気を伴った表出ではないかと思う。他者との違いをどのように体現していくのかに苦悩し、迷い、試し、失敗し、また試す……そのプロセスを含めた表現の、誤解も含めた自由な拡大解釈が歴史を変えてきたことはおそらく誰もが気づいていることだ。あのデヴィッド・ボウイでさえ、今でこそ誰もが知るロックのヒーローだが、知覚しにくい自己の出自や欲求を知覚しやすいように形にしてきた異分子の走りのような存在だった。先達からの影響や敬意を手に、だが既視感の呪縛をいかに葬り去ることができるか。それはどんな表現者も最終的にぶつかる壁だろうが、そこを乗り越えるには、それこそいかに異質で極端になれるか、という側面も大衆音楽の進化には必要であってきたということだ。そして、見事進化させた場合、それは意図や狙いの元に達成されたものなどではなく、ただただ、本当にただひたすら「そうせざるを得なかった」結果であることが多い。

クラウス・ノミがまさにそんなアーティストだった。異分子になろうというよりも、もうこれしかできない、極端ではなくこれが自分にとってスタンダードであるという状況に唖然とする中で、それをただ実践していくしかなかったのではないか。ボウイさながらに知覚しにくいことを知覚できるようわかりやすくポップ・イコン化させようとした極めて純潔なアーティストだった。「世界で最初にエイズによって死去したミュージシャン」と紹介される記事も多々散見されるが、その真偽はともかくとして、この人は確かに終始自らのその異質性に向けられた偏見に屈しないできた。




1944年、ドイツ南部はインメンシュタット出身。その後、分断時代の西ドイツはベルリンに育った本名クラウス・シュペルバーakaクラウス・ノミは、マリア・カラスに憧れオペラに傾倒、自らファルセット・ソプラノで歌い始めたという。だが、そんな奇異なスタイルでオペラに挑むノミはなかなか受け入れられず、保守的なクラシック音楽の領域の中でアイデンティティを模索することに疲弊。そして、1972年にはニューヨークへと移住していく。それは、ノミがオペラと同じくらいにロックの影響も受け始めていたことが理由だった。もしかすると彼の頭の中にはヴェルヴェット・アンダーグラウンドとファクトリー周辺の猥雑で魅力的な空気が連想されていたのかもしれない。

しかし、72年、ルーはとうにヴェルヴェットを脱退しており、バンドもまさにその年に解散。ルーはロンドンへと移住し、ソロ・デビューも果たす。まさしくデヴィッド・ボウイ、ミック・ロンソンらと組んで『トランスフォーマー』、そして翌年には『ベルリン』をリリースしたソロ初期の黄金時代を彼はロンドンなどヨーロッパで過ごしているのである。アンディ・ウォーホルはといえば、セレブ、社交界、政治家や有名人のポートレートをシルクスクリーンでプリントするようになり、世界中で展覧会が開催される人気者になっていった。つまり、ノミがニューヨークにやってきた時、彼ら60年代アンダーグラウンドの重要人物の多くはもうそこからほぼ離れていたのである。

とはいえ、ニューヨークはゲイ・カルチャーのメッカ。実際に共演、交流があったかどうかはわからないが、アーサー・ラッセルも73年には故郷アイオワからニューヨークに移住していて、モダン・ラヴァーズのアーニー・ブルックスらとバンドを組んでいる。またパティ・スミス、トム・ヴァーレイン、ロバート・メイプルソープらもニューヨークの地下で活動開始していた頃……つまり、来るパンク~ニュー・ウェイヴの息吹が芽生え始め、異分子たちが相変わらず多く渦巻くこの地で、ノミもまた象徴的ヴェニューだった「Max's Kansas City」に出演するようになった。



しかし、その存在はパンク前夜のニューヨークでも異質だったという。自らはプラスチック製のマントを羽織り、2体のロボットを配し、黒いマスクをしたミュージシャンを従えて、クラシック・オペラとポップスとを織り交ぜたような……それは男でも女でもなく、そもそも生身の人間らしささえ徹底的に排除したような、さながら宇宙人のようなパフォーマンスだった。彼がゲイであることは周知の事実だったが、ファルセット・ヴォイスでオペラ歌手のように朗々と歌う姿が、彼の地においても相当違和感を放っていただろうことは想像に難くない。

78年頃になるとイースト・ヴィレッジ周辺で話題を集めるようになり、ヴィジュアル・アーティストのデヴィッド・マクダーモットとピーター・マクガフが企画したイベント「New Wave Vaudeville Show」では、ストロボや発煙筒などで幻想的な演出を施した中、サン=サーンスのオペラ『サムソンとデリラ』から「あなたの声に私の心は開く」を披露。この時に、ノミがさらに飛躍していく上で重要人物となる、マンプスのメンバーでもあったプロデューサーのクリスチャン・ホフマンと知り合っている。ノミの奇異な魅力に惚れ込んだホフマンは彼のために「Nomi Song」や「Tortal Eclipse」「Simple Man」といった曲を書き、ルー・クリスティ「Lightning Strikes」やレスリー・ゴア「You Don't Own Me」といったポップスのカバーをするようなアイデアをどしどし提案。これらの曲はノミのデビュー・アルバム『クラウス・ノミ』、2ndアルバム『シンプル・マン』に収録されることになるが、つまりノミのミュージシャンとしての原型はこのノー・ウェイヴ時代のニューヨークで形成されていったのである。


「New Wave Vaudeville Show」に出演したクラウス・ノミ(登場は2:50〜)

そんなノミが世界規模で注目されるようになったのは、79年、いみじくもデヴィッド・ボウイとの出会いによってだった。だが、それもニューヨークはトライベッカにあったクラブ「Mudd Club」でのこと。ボウイは自身が出演する予定の「Saturday Night Live」でのパフォーマンスのバック・メンバーにすぐさまノミを抜擢。ノミはボウイが『世界を売った男』で彼が着用していたスーツに似たものを新たにプラスチック製であつらえ、以降この衣装を好んで身につけるようになる。1stアルバム『オペラ・ロック』で白塗りにした本人が着用しているものがまさにこれである。




「Saturday Night Live」での一幕。一番左がクラウス・ノミ、左から4番目がデヴィッド・ボウイ。俳優/コメディアンのビル・マーレイ、ラレイン・ニューマン、ジェーン・カーティン、ギルダ・ラドナーの姿も。(Photo by Robin Platzer/Getty Images)

ボウイ人気に後押しされたこともあり、80年にノミはデビュー・シングル「Keys Of Life」をリリース。そして81年にはまさにその1stアルバム『Klaus Nomi(日本タイトルはオペラ・ロック)』を発表した。翌82年には2ndアルバム『シンプル・マン』をリリースし、その得体の知れない個性がさあいよいよ世界に向けて……といった矢先、エイズによる合併症で83年8月6日に死去。39歳という若さだった。火葬されたノミの遺灰は親友でパートナーだったジョーイ・アリアスによってニューヨーク市に撒かれている。

 
 
 
 

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