世界的インディレーベル社長が綴る、ジャズの巨匠ロイ・エアーズとの「父子の物語」

ナビル・エアーズ(Photo by GABRIELA BHASKAR)

4AD、Matadorなど名門インディを擁するBeggars Group USA社長としてザ・ナショナル、ビッグ・シーフ等と協働し、ニューヨーク・タイムズ、NPR、ローリングストーン、GQなどに寄稿する人気音楽コラムニストとしても活躍。2022年には父親であるジャズ・ヴィブラフォンの巨匠ロイ・エアーズとの関係を描いた自伝エッセイ『My Life in the Sunshine』を刊行し全米で話題になったナビル・エアーズ(Nabil Ayers)が、4月29日に黒鳥福祉センター(港区・虎ノ門)にて特別トークイベントを開催する。

ここでは来日を記念して、回想録『My Life in the Sunshine』より、34歳になるまでほとんど会ったことのない父親ロイ・エアーズとの感動的で緊迫感溢れる「初対面」のシーンを抜粋してお届けする。翻訳はトークイベントの聞き手を務める若林恵(黒鳥社/blkswn jukebox編集委員)。



この10年ほどの間、インディ・ロックや前衛ジャズの世界に身を浸したことがあれば、ナビル・エアーズという名前と出会っている可能性は高い。ロング・ウィンターズやレモンズといったシアトルのバンドの一員として、彼の逞しく骨太なドラムを耳にしているかもしれない。あるいは、愛されたレコードショップ「Sonic Boom Records」の経営者として、長年務めてきた4ADのゼネラル・マネージャー(現在は親会社Beggars Groupの米国社長)として、その名に接しているかもしれないし、彼が営むブティック・レーベル「Valley of Search」からリリースされたジャズ作品を聴いたことがあるかもしれない。けれども、ナビル・エアーズがジャズ・ヴィブラフォンの伝説ロイ・エアーズの息子であること、その父との関係が一筋縄ではいかない複雑なものであることを知らない人は多いだろう。

ナビル・エアーズは、こうしたすべてを、ペンギンランダムハウスから2022年6月7日に発売され、ロイ・エアーズの1976年のヒット曲「Everybody Loves the Sunshine」に由来するタイトルを冠した新たな回想録『My Life in the Sunshine)で明かしている。本書から抜粋した以下の文章は、エアーズが30代半ばに初めて父親と会ったときのことを振り返ったものだ。ロイ・エアーズと彼の母親は、息子が生まれる前に、彼が子育てには一切関与しないことに合意していたため、ナビルはそれまで、父親とはほんの数度会って短いやりとりをしたことしかなかった。





シアトルのジャズ・アレイというジャズクラブの出演者として、1年か2年おきに、ロイ・エアーズの名が挙がっていることに気づいてはいた。ただの一ファンとしてであっても、父のコンサートに行こうと思ったことはなかった。父がどんな人だったのか、どんな人になっているのか、また、後ろの方の席から何らかのつながりを感じることができるのかどうか確かめようと思ったこともなかった。彼は私にとって何者でもなかった。名前は聞いたことがあるけれど、なんの縁もゆかりもないただの一アーティストに過ぎなかった。

34歳のとき、初めてセラピストのもとに通うようになった。セラピストは、言うまでもなく、遠回しに、父のことを打ち明けるよう促した。私は、できるだけオープンであろうとし、いつもと同じ主張を繰り返した。父と母の間でなされた合意については、子どもの頃から知っていることだ。だから父は私たちの元を去ったわけではない。私にとっての父は叔父だ。存在しなかった人が、消えたりはしないでしょう?

このセラピーが始まって間もない頃、「ソニックブーム」の社員のひとりが、父のことを話題にした。私は店のフロントカウンターにいて、彼女はCセクションの上でポスターをホチキスで留めていた。いまでもその場所は正確に覚えている。

「あなたのお父さんが『トリプルドア』に来るってよ」。彼女は何気なくそう言って、ホッチキスで壁をガンガンと叩いた。

彼女のそのあまりに何気ない口ぶりに心が揺らいだ。私と父の関係を知らないのだろうか? そう思いながら、どう返事したものか考えた。誰かが父の話を持ち出すたびに、その名前を振り払っては、父が自分にとって大した存在ではないと自分に言い聞かせてきた。そうそう、父親だよ。でも、赤の他人だよ。そうやり過ごすことになんの支障もなかった。母と結んだただの取り決めに過ぎないはずだった。けれども、その日、なぜか、心がぐらついた。

「そうなんだ」。平静を装い、別のことで手一杯でそれどころじゃないような気素振りで答えた。こうした報せを耳にしても、それまでは、いつどこで演奏するのかを調べようと思うことはなかった。その日に自分が街にいるかどうか確認したこともなかった。父は街を通り過ぎ、また1年か2年後にまたやってきたことを耳にするだけだ。

けれども、その時初めて、引き寄せられるのを感じた。新しく不慣れな感覚だった。誰かにこんなことを言われたような感じだった。「外に美しいヴィンテージのドラムセットが置いてあって、無料と書いてある。けれども、それを手に入れるためにはクールに振舞わないといけません。自分がそれを欲しいだなんておくびにも出してはいけません。ちなみ、それぞれのドラムには100ドル札が詰め込まれているんですよ」。

「ライブはいつ?」。 私は穏やかに訊ねた。「9月6日ですね」。

新聞を読むふりをしながら、心が逸っていた。「ちょっと2階に一瞬行ってくるから店を見ていてくれない?」。 お金の詰まったドラムセットを欲しがる素振りを見せまいと苦労しながら、ゆっくりと事務所へ向かう階段を上り、2006年9月6日に自分が街にいることを慌てて確認した。

これまで何年もの間そうしてきたように、無視するのが一番楽な道だった。父に会わないことには何のリスクもない。その日にポートランドやLA、もしくはニューヨークにでも行く計画を立て、誰に聞かれても、「街にいないんだよね」と答えることができるようにすることもできた。けれども、今回ばかりは、感じたことのない引力が働いていた。生まれて初めて父に連絡を取りたいと思ったのだ。

父に何を求めていたのか、自分でもよくわからない。父が私の父になることはないことはわかっていた。それにはもう時間が経ちすぎてしまったし、優れた男性のロールモデルに囲まれて私は大人へと育ってしまった。お金を必要ともしなかったし、欲しくもなかった。けれども、とりたてて具体的な目的がなくても大丈夫だろうと感じていた。母はいつも、具体的な目的や要件がなくても、情報交換のために人と会って交流することの意義を語っていた。セラピストの励ましを受けつつ、なんの目的もないままに、私は、11歳のとき以来初めて、20年以上会っていない実父と面会する約束を取り付けた。

Translated by Kei Wakabayashi

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