ミシェル・ヨーが語る、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』に巡り合うまでの物語

香港映画から学んだアクション、転機となった『グリーン・デスティニー』

別の時代に、(同じくらい豪華なホテルの中にある)別の豪華なレストランで、中国の映画プロデューサーであるディクソン・プーは、同席していた相手に俳優を探している旨を伝えた。彼と食事を共にしていたのは、母親に半ば強制的に出場させられたミスコンでミス・マレーシアに輝いた、当時21歳だったミシェル・ヨーの親しい友人だった。その女性は、所持していたミシェルの写真をディクソンに見せた。数日後、ヨーは香港の撮影現場で、既にアジア最大のスターの1人となっていたジャッキー・チェンと共に、腕時計のCM撮影に臨んでいた。数週間後、ヨーの才能に惚れ込んだディクソンは彼女に再び電話をかけた。D&B Filmsというプロダクション会社を立ち上げたばかりだった彼と格闘派俳優でディレクターのサモ・ハン・キンポーは、彼女との専属契約を申し出た。彼女は女優業にさほど興味があるわけではなかったが、またとないその機会は彼女の冒険心をくすぐった。当時の彼女は人生の岐路に立っており、どの道に進むべきか決めかねているところだったからだ。


ミシェル・ヨー 2022年3月 ロサンゼルスで撮影 MICHAEL TRAN/AFP/GETTY IMAGES

「まず気になったのは、父の反応でした」。目を見開いて、口元を震わせる真似をしながら、彼女はそう言った。「イングランド留学とは次元の違う話ですから。留学する時は、最終的にはマレーシアに戻ってきて自分のバレエスクールを開くつもりでいました。地に足のついた生活を想定していたんです。私の父は弁護士ですが、ものすごく口数が少ないんです。だから彼が発言する時は、それがすごく重要であることを意味していました。まず間違いなく、『ダメだ』の一言で片付けられるだろうと思っていました。でも話を切り出さないことには答えを出せないので……」

「私は父に契約書を見せました」と彼女は続ける。「『何を考えているんだ、教師になってまっとうな人生を送りなさい』と言われることを覚悟していました。でも父は、契約書に目を通してこう言ったんです。『これじゃ奴隷になるも同然だ。お前は相手の言いなりで、報酬もはっきりしない。正当な理由なく、金を一切払わないまま契約を切られる可能性だってある。私が修正してやる』。呆然としている私に向かって、父はこう言いました。『で、いつから行くんだ』。私はすぐに準備を始めました、父の気が変わらないうちに。あるいは、母がついてくることが条件だとか言い出さないうちに」。彼女は笑ってそう言った。「それなら契約を断ったほうがマシですから」

当時ミシェル・カーンという芸名を用いていた彼女の初出演作を観たことがある人でも、覚えているのは『デブゴンの快盗紳士録』というタイトルだけかもしれない(「香港映画のタイトルのセンスが大好きなんです」と言って、彼女は大笑いした。「意味不明なんだけど、とにかく笑えるんですよね」)。同作で彼女は不良たちを結束させ、2人の犯罪者を公務員として更生させようとする教師を演じている。だがその台本によると、彼女は「苦難の乙女」役だった。そのフレーズを口にした時、彼女はわずかにため息を漏らした。「2作目を撮っていた時、ある人がディクソンにこう言ったんです。『君らは変わってるね。せっかく海外からエキゾチックな女優を呼んでいるのに、どうして他の女優と同じような役をやらせるんだ? もう少しクリエイティブになってみたらどうなんだ?』。それに対して、彼らはこう返したんです」。ヨーは鈍臭そうな男性の低い声を真似てこう言った。「ふーん、面白いね。そっか、ちょっと考えてみるよ」。わずかな沈黙を挟んで、彼女はこう続けた。「そういう男性っていますよね」

問題はいかにも乙女チックなキャラクター以外に、ヨーにどういった役をやらせるべきなのかということだった。広東語がほとんど話せないという事実は、彼女にとって足枷となっていた。「当時の私は漢字も読めませんでした」と彼女は話す。「でも、それはあまり問題じゃなかった。当時はれっきとした台本自体が存在しなかったので」。ディクソンが興味を持つきっかけだった彼女のエキゾチックな美貌は、お隣に住むお姉さん的な役には向いていなかった。「見た目からして違っていた私は、はっきり言って浮いていました。当時の香港映画といえば、アクション、コメディ、アクション・コメディ、少しコメディ要素のあるアクション、あるいは少しアクション要素のあるコメディみたいなものが多かった。見た目も雰囲気も特徴的な私は、当時のそういう映画にフィットしなかったんです」

ヨーが撮影現場で特に興味を持ったこと、それはアクションのシーンだった。香港映画の代名詞のひとつである、派手なアクションや格闘シーンでのスタントマンの仕事を見るうちに、彼女はパンチやキックのリズム感を掴んでいった。「ダンスの振付師を見ているような感覚でした」と彼女は話す。「シーンのバックで流れている音楽が聞こえてくるような感じ。ボン、ボン、ボンというふうに」。彼女はワルツのようなリズムを口ずさみ、ビートに合わせてジャブを打つかのように腕を動かし始めた。「これだ、そう思ったんです」

また、会社が用意してくれた彼女の住まいのアパートの向かいにはジムがあった。スタントコーディネーターやアクション映画の端役(スターたちと拳を交える下っ端や悪党、暴漢を演じる人々)は、皆そこで頻繁にトレーニングをしていた。しばらくして、彼女はそのうちの何人かに手ほどきを頼むようになった。「中にはスタントマンじゃなくて、本物の格闘家もいました」と彼女は話す。「いつも悪役を務めている、俳優でもあるスタントマンの人に『手加減なしで思いっきりやってみてください』って言われて、私がこんな感じで(腕を大きく動かし、開いた手のひらを素早くひねって内側に向ける)打とうとすると、彼はそれを受け止めました。反撃はせず、ただ受け止めたんです。私の腕には激痛が走りました、まるで鋼鉄に手を打ちつけたかのように」



それでも怯むことなくトレーニングを続けたヨーの脇腹には、勲章としての青あざが増えていった。周囲の人々は彼女を仲間として認め、徐々にではあったが、彼女に敬意を払うようになっていった。1985年作『レディ・ハード 香港大捜査線』の監督ユエン・クウェイが撮影現場を訪れた時、彼はアクション映画を撮るのを楽しみにしている様子だった。「でもこう言われたんです。『ミスマレーシアなんて必要ないだろう。彼女にポーズをひとつだけ教えてやってくれたら、あとはこっちで何とかする』。彼らは壁を使ったダブルフリップを難なくこなす、優れたスタントマンを用意していました。彼は手本を見せてくれましたが、一瞬のことで私はまるで理解できませんでした。こんなの無理だと思いましたが、私には失うものはありませんでした。失敗して無様に顔面から着地するかもしれないけれど、私が本気だということを伝えたかったんです。私が『できない』と絶対に口にしないことを、彼らは悟ったようでした。私はいろんなことを、素早く身につけていきました。負傷するたびに涙を流しているようでは、この世界では生きていけません。スタントマンの方々がそうしてきたように、身をもって学ぶしかないんです」

ヨーは以降の数年間で香港映画界のトップスターの座に上り詰めたが、1988年にディクソンと結婚し、家庭を築くため女優業を引退すると発表したものの、2人は1992年に離婚する(その後も友人同士として良好な関係を継続)。彼女の銀幕復帰作であり、ジャッキー・チェンとのW主演となった『ポリス・ストーリー3』での豪快なバイクスタントのシーンは、ヨーをアクション映画界のスターの座に押し上げた。以降の5年間、彼女の活躍ぶりはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。それだけに、すべてのスタントを自分自身でこなす移民の女性が中国映画界のスターになる過程を描く『スタントウーマン 夢の破片』が、ヨーの快進撃に歯止めをかけてしまったことは皮肉だった。歩道橋の上から走行中のトラックのマットレスに上に飛び移るシーンで着地に失敗したヨーは、肋骨および椎骨の骨折で入院することになる。それはバレエダンサーの夢を諦めるきっかけになった怪我よりもはるかに深刻であり、彼女は映画界からの引退を真剣に考えた。しかしヨーの療養中に、彼女のフィルモグラフィーを返却するという名目でクエンティン・タランティーノが見舞いにやってきた時に、彼女は女優を続けることを決意したという。1997年公開の007映画『トゥモロー・ネバー・ダイ』の出演オファーが舞い込んだ時には、彼女は完全復活の準備を整えていた。格闘シーンを自らこなすことは許可されたものの、スタントはプロにやらせるという条件を提示されたが、彼女に異論はなかった。

その時から始まったキャリアの新章のテーマについて、ヨーは「演技の追求」だと話している。決して90年代半ばの格闘シーン満載の映画や、大迫力でスリル満点の大ヒット作での演技を軽んじているわけではない。「あなたは以前、私がアクション女優に転身した理由について、それが自身の意思に基づいていたのか、それともこの世界で生き残るための選択だったのかと訊ねましたよね」と彼女は話す。「既に触れましたが、私は中国語があまり話せなかったものの、ボディランゲージと体の動きを読み取るのは得意でした。まだ22歳で短絡的だった私は、走ったり何かに飛び移ったり、スタントに専念していればあまり話す必要がないだろうと考えたんです。要するに刑事役ですよね。バン! ドン! バン! そういう明快なものなら自分にもできるだろうって」



ヨーはこう続ける。「でも『グリーン・デスティニー』のオファーが来た頃、自分には何かが足りないと感じて。とてもフィジカルな役柄ではありましたが、それだけじゃなかったんです」。アン・リーが監督を務めた、クロスオーバーでポエティックな2000年公開の同作での役を演じるには、彼女の10年以上に及ぶアクションスターとしての経験だけでは不十分だった。同作は剣術や綱渡りをフィーチャーしたオールドスクールな武侠ものではあったが、登場人物の心理面の描写も魅力のひとつだった。振り返ってみると、同作への出演が大きな転機となったと彼女は話す。同作での彼女の演技、特にチョウ・ユンファとのドラマチックなシーンは、女優としてヨーが新たなレベルに達したことを如実に物語っていた。リーの助言に従って、彼女はそれ以降演じるキャラクターに関する覚書のようなものを書くようになった。ヨーは既に世界的スターとして認知されていたが、その頃から彼女は自分を女優として捉えることができるようになった。「もう少し後になってからは、『このキャラクターがどうやって生計を立てているのかはわかる。でも、この人物は何を求めているんだろう?』というところまで考えられるようになったんです」

以降の20年間で、ヨーは演技の幅を大きく広げてみせた。芸者の品格の独自解釈『SAYURI(Memoirs Of A Geisha)』、脳を直に刺激するようなSF『サンシャイン 2057』、子供向けのアニメーション映画『カンフー・パンダ』、アクション超大作『ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝』、伝記映画(『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』)、ロマンスコメディ(『ラスト・クリスマス』)、TVシリーズ(『マルコ・ポーロ:百の眼』)、そして痛快なバトルシーンが魅力のアクション映画の数々など、彼女は女優としての存在感をさらに増していった。大ヒットを記録した『クレイジー・リッチ!』での「あなたじゃ役不足なの」というセリフに、背筋が凍るような恐怖を覚えた視聴者も多いだろう。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』『シャン・チー/テン・リングスの伝説』のマーベル映画2作への出演も記憶に新しい。『スタートレック:ディスカバリー』で重要な役を見事に演じた彼女は、制作が長引いているジェームズ・キャメロンの2009年作『アバター』の続編4作品に出演することが決定している。彼女が演じたことのない役柄といえば、大都市のチャイナタウンに住む普通の女性というキャラクターくらいのものだった。だがそれも、指がホットドッグになった人間が登場する脚本に出会う前までの話だ。

Translated by Masaaki Yoshida

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