ブライアン・アダムスが語る80年代の記憶、絶好調の今「日本は僕にとって特別な国」

ブライアン・アダムス

 
3月4日(土)仙台サンプラザホール、3月6日(月)大阪城ホール、3月7日(火)日本武道館、3月8日(水)Zepp Nagoyaにて来日公演を行う、ブライアン・アダムス(Bryan Adams)の最新インタビューが実現した。

いよいよ6年ぶりのジャパン・ツアーが目前に迫ってきたブライアン・アダムス。全米トップ10入りしたヒット曲が11曲、そのうち4曲がNo.1に輝いたカナディアン・ロックのレジェンドは、今年でソロ・デビュー45周年の節目を迎える。“永遠の青年”というイメージがあったブライアンも、現在63歳。しかし落ち着くどころか、過去最速ペースで怒涛のリリース・ラッシュが続いているのをご存じだろうか。

昨年3月、同題のミュージカルに提供した楽曲を自ら録音したアルバム『Pretty Woman - The Musical』(配信のみ)と、共同プロデューサーとしてマット・ラング(AC/DC、デフ・レパード、ザ・カーズなどを手掛けたヒットメイカー)が復帰した最新作『So Happy It Hurts』を続けて発表。さらに過去の楽曲を再録音したデジタルアルバム『Classic』を4月に、その続編『Classic Pt. II』を7月に配信し、このシリーズをまとめたアナログ盤も発売した。今年は2月に『Cuts Like A Knife』(1983年)の再現ライブを収録したアルバム『Cuts Like A Knife - 40th Anniversary, Live From The Royal Albert Hall』を配信でリリースして、ファンを喜ばせたばかり。既に新しいオリジナル・アルバムにも着手しているというから恐れ入る。

ロックンロールのハードネスとポップ性を両立させる、ブライアンならではのバランス感覚はデビュー当時から不変。ブルース・スプリングスティーンやジョン・メレンキャンプと随分比較されたが、ブリティッシュ・ハード・ロックに強い影響を受けて育った点は彼らとの大きな違いだ。それと同時に、ビートルズやELOを敬愛する面もあり、作風の振れ幅は意外と広い。

そんなブライアンが影響された音楽や、80年代のエピソード、そして近年までを駆け足で訊いたが……彼の頭の中はもう新しいプロジェクトでいっぱい、という印象。枯れる様子など微塵もない前のめりなブライアンの肉声を聞けたことが、長年のファンとしては何よりうれしかった。



―まず、あなたの音楽的なルーツから教えてください。「自分自身の基礎を作った」と思う最も重要なシングルやアルバムを、パッと思いつくままに挙げてもらえますか?

ブライアン:おそらくほぼすべてのビートルズのアルバムと、レッド・ツェッペリンのアルバム、ディープ・パープル、ザ・フーのアルバム……と、永遠に続けられる。基本的に、僕は1960〜70年代のロック・ミュージックで育った生徒だったってことさ。

10代の頃ギターを買うときに、ハンブル・パイのスティーヴ・マリオットが弾いているのを見て、レスポールタイプを選んだそうですね。

ブライアン:ああ、ハンブル・パイは大好きだったよ。特に『Rockin' The Filmore』(1971年)。ハンブル・パイを知るまではリッチー・ブラックモアが好きで、彼のギタープレイが僕のすべてだった。今も大好きだし、どうやったらあんな風に弾けるのかいまだにわからないよ。



―お父さんの仕事の関係で、少年時代はポルトガルからイスラエルまでさまざまな国を訪れたそうですね。そうした経験はあなたの音楽性の幅広さに何か影響しているでしょうか?

ブライアン:ポルトガルに住んでいたとき、スペインにフラメンコを見に行ったのが、僕にとっては初のコンサート体験だよ。まだ8歳くらいだった。一番前の列に座らされ、フラメンコのギタリストの演奏に合わせて踊るダンサーを目の前で見たんだ。色々な国を訪れることは、異なるカルチャーの価値を認められるようになるということだと思う。世の中は同じものばかりではないという理解が深まるよね。フランス語にVive la différenceという素晴らしい表現がある。「皆が違うことに万歳!」ということだ。価値を認めるべき異なるものがたくさんあるって、素晴らしいことだからね。とは言いつつ、“3コードのハード・ロック・バンドと良い歌詞”以上のものはないと思うけれど。

―僕があなたの名前を知ったのは、プリズムやイアン・ロイド、ボブ・ウェルチのレコードにソングライターとしてクレジットされているのを見たときでした。あなたとジム・ヴァランスのコンビがソングライターチームとして注目され、ふたりで書いた曲が次々にレコーディングされていくのは、どんな気持ちでした?

ブライアン:それって、僕が18歳のときにやっていたことだよ! 君が知ってるなんて驚きだよ、そんなに年寄りじゃないはずなのに。とにかく、いい出発点だったと思うよ。いざ自分のアルバムを作るとなったとき、ソングライターとしての実績が既にあったことは、ある程度、助けになったと思うからね。18~19歳でレコード契約という扉を開くことができたのも、少なからずそのおかげだったから。

―あなたがヤマハ主催の世界歌謡祭に出場したときのこともよく覚えていますよ。セリーヌ・ディオンが出たのと同じ1982年でした。

ブライアン:なんで君が覚えているんだよ! 僕ですらほとんど覚えてないのに。あれは1982年だっけ? 1981年だと思ってた。

―予選でパーフェクトなポップソング「Let Him Know」を歌ったのに入賞しなかったことが、今となっては信じられないです。あのときのことは何か覚えてますか?

ブライアン:いや、覚えてはいるんだけど、なんかちょっと変わったフェスティバルだったな、という記憶だよ。いくつもの賞品があって、そのうちの一つがバイクだったんだ。マネージャーに「僕があのバイクを受け取ることになるよ、絶対」と笑ってたら、案の定、当たってね。でもなかなか送ってくれないもんだから、「バイクをもらえませんか?」と何度も連絡したんだ。3年くらい待たされたかな。最終的にはもらったんだけどね。



―その「Let Him Know」も入っている傑作『Cuts Like A Knife』の40周年記念ライブ・アルバムが、ちょうど2月に配信されたばかりですね。改めてあのアルバムを全曲演奏してみて、どんな発見がありましたか?

ブライアン:どれもいい曲だということ、そしてどれも演奏しやすい曲ばかりだということだよ。やっていてすごく楽しかった。Apple Musicでもなんでもいいから、あのライブを聴いてもらえれば、すごく自然に演奏できていることがわかると思う。YouTubeにはパフォーマンス・ビデオが2本上がっているので、ぜひそれもチェックして。観れば、すごくリアルだってことがわかるはずだよ。あれはジム・ヴァランスも僕も、全てがぴったりうまく合ったと感じられた最初のアルバムだった。やるべき準備は整い、遂に本当にいいアルバムを作れる状態になっていた、というのかな。アルバムとしてのまとまりがあったね。全曲を通してライブで演奏してみて感じたのは、その”まとまり”だったよ。ロックしてるアルバム、ってことさ。



Translated by Kyoko Maruyama

 
 
 
 

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